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世界最強鎌倉武士団

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 16:29:46
13世紀、世界最強だったのはモンゴル騎兵ではなく鎌倉武士。
直接対決でも勝ってるしな。

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 16:36:17
素朴な疑問だが、蒙古は九州に馬持ち込んだの?

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 16:44:12
>>2
八幡愚童訓
「其中に、大宰少弐三郎左衛門尉景資殿を、日大将軍として待かけたるところ、
十月廿日未明より、蒙古陸地に、おしあかり、馬にのり、旗をあけて攻かかる」

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 16:45:20
>>3 そうですか
即答&明快な答えサンクスです

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 19:16:00
>>1
陳興道とハルジーとバイバルスの立場は……

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 20:16:44
高麗人と蛮子に勝ったことがそんなに嬉しいか?

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 05:10:57
>>5
マムルーク朝やハルジー朝が勝ったモンゴル軍は、所詮はフレグ・ウルスや
チャガタイ・ウルス。
日本が勝った大元ウルスとは、国力が比較にならない。
マムルーク軍がアイン・ジャールートで戦ったモンゴル軍が1万2000程度だった
のに対し、文永の役の元軍は4万。
それに、ハルジー朝がインダス川を遥かに越えデリー近郊まで侵攻したモンゴル軍に
ようやく勝利したのに対し、日本は元軍が九州に橋頭堡を築くことすら許さないという
完封勝利。

大越の陳朝が勝ったのは確かに大元ウルスだが、日本の場合とは勝利の内容が
大きく異なる。
陳朝はモンゴル軍襲来の度に首都を占領され、国王がデルタ地帯に逃げ込まなければ
ならなかった。
1257年にハノイの大羅城を攻略したウリャンカダイ率いるモンゴル軍は僅か3000だったのにだ。
そのため、日本が最後まで元からの独立を貫いたのに対して、陳朝は元への入貢を約束し、
王族を人質に出し、国内にダルガチを配属しなければならなかった。

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 05:21:41
>>6
文永の役の元軍は蒙漢軍が主力だったよ。

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 06:50:56
素人考えなんだが、相手が渡海して攻めてきたのと、
陸路で来たのとを単純に比較は出来ないんじゃないの?

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 11:52:18
>>9
例えば十字軍とかは、ヨーロッパから中東まで侵攻するのに、渡海と陸路という2つの
選択肢がある場合は、ほぼ渡海の方を選んでいる。
船を使った方が、遥かに大量の物資を、迅速に運搬できるというメリットがあるからね。
現実に、日本へは文永の役4万、弘安の役14万という大軍が投入されているだろ。
大元ウルスは、元寇と前後して東南アジアへも陸路侵攻しているけど、そちらは大半が
万に満たない兵力の小規模な作戦だった。

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 23:14:00
以前から疑問に思ってたんだが、この時の日本軍の指揮系統どうなってたんだ?

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 18:44:40
>>11
いざ!鎌倉ーーーーーーーーーーー!!!

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 00:35:57
>>11
文永の役では、鎮西奉行の少弐氏が日本軍の指揮を執っていた。
あと幕府は中国地方でも動員をかけているが、そちらでは御家人たちは守護の指揮の
もとで戦うことになっていた。

文永の役の結果、モンゴル軍が大して強くないことが解ると、幕府は元に攻め込むことも
視野に入れて、西国の守護を北条一門で固めるようになる。
弘安の役では、関東御使の合田五郎や安東左衛門次郎が派遣され、鎌倉と九州の調整を
おこなっていた。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 07:20:03
とは言え。
基本的に戦略・戦術面では個別対応というのが実態。
「君たちの判断で動いてくれ・・・現場の君たちを信じる」
室井警視正のような鎌倉幕府。

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 07:27:15
>>8
文永の役の時は高麗、元、北宋かな。
民族分布もさることながら、蒙古騎兵は皆無。当然ながら。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 10:34:53
>>15
モンゴルについての先入観が皆無の当時の日本人が「蒙古人は馬に乗って攻めて来た」って
書いてるのに、騎兵が皆無なわけ無いだろ。
文永の役の元軍は、蒙古騎兵が主力。当然ながら。


17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 13:46:07
あの頃の辺境の元軍は、殆ど漢人やチョンの歩兵ばかりで、蒙古人は殆ど指揮官クラスしか居ないんじゃね?
元寇の時は指揮官にも漢人が多く居た気がするし・・・

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 14:02:11
>>17
歩兵ばかりだったのは8000人の高麗部隊。
その他の蒙漢軍が2万5000なんだから、どう考えてもそっちの方が主力だろ。
日本側の文献には、文永の役の元軍の特徴として「馬によく乗る」って書いて
あるのに、どこから「歩兵ばかり」なんて話が出て来るんだよ。

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 14:47:40
>>18
蒙漢軍二万五千人全部が騎兵だったの?人間の何倍も食う馬秣の輸送がもの凄く大変だったろうなぁ。さすが大モンゴル。
そう言えば、蒙古襲来絵詞には馬だけでなく歩兵も一緒に描かれているけど、あいつ等が高麗人?

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 15:14:18
>>16
しかし文永の役の頃っていえば、元の対南宋戦の途中だよな
北アジア〜中央アジアも安定してないし、日本に主力と言える位のモンゴル人騎兵連れてこれるのか?

それに元の騎兵=モンゴル人騎兵というのも変だろ
その頃にはキプチャク系の騎兵も元には居たはずだし(まあ日本には連れてきていないと思うけど)

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 15:19:41
>>19
騎兵部隊の海上輸送なんか、ウィリアム征服王や十字軍だって普通にやっている。
大モンゴル帝国にできなかったとしたら、そっちの方が問題だろ。
それから、蒙古襲来絵詞に描かれているのが高麗部隊だっていうのは、ほぼ定説。

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 15:25:46
>>21
騎兵も?

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 17:17:39
>>20
モンゴル帝国が多方面の軍事作戦を同時進行でおこなうことは珍しくない。

あと、厳密にモンゴル人騎兵と呼べるような部隊は、モンゴル高原の外に出た段階から存在しないよ。
モンゴル軍は通常どこでも他民族部隊。
だから、元の騎兵は立派にモンゴル騎兵だよ。

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 19:21:46
>>23
じゃあわざわざ高麗とか漢人とか言う必要すら無いじゃないか
みんなモンゴル歩兵とモンゴル騎兵で良いよ

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 19:22:38
>>23
じゃあわざわざ高麗とか漢人とかいったり、主力云々を語る必要すら無いじゃないか
みんなモンゴル歩兵とモンゴル騎兵で良いよ

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 10:08:12
元軍の民族構成云々は元々、日本軍のモンゴル軍に対する勝利を認めたくない連中が
言い掛かりとして持ち出した話じゃん。
モンゴル軍の他の戦いでは、そんなこと気にしないくせに。

チンギス・ハン死亡時(1227年)のモンゴル軍左翼の民族構成
モンゴル同盟部族 39%
契丹人 16%
バリアン氏族 16%
女真人 16%
オイラート族 6.5%
オングト族 6.5%

元寇で日本に攻めて来たモンゴル軍が他民族軍なのなんて当然だろ。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 13:31:47
>>26
スレタイを実証したいならモンゴル帝国系国家の国力と共に分析対象だろ

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 15:36:45
日本に来たのはモンゴル帝国内で最強の大元ウルスのモンゴル軍。
大元ウルスに対しては、他のモンゴル内の有力者も度々反乱を起こしているが、
クビライは連戦連勝。
ナヤン・カダアンの乱で、カダアンとその息子ラオディ率いるモンゴル反乱軍は、
朝鮮半島で大元ウルス・高麗連合軍によって壊滅させられたんだ。

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 15:43:23
ねえ教えて
ウルスって何じゃろ?

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 16:21:52
>>29
ウルスってのはモンゴル帝国内で成立した帝国内国家。
その中で最大なのがクビライの大元ウルスで、クビライはモンゴル帝国全体の大ハーンでもある。
バトゥのロシア・東欧遠征によって成立したのがジョチ・ウルス。
フレグの中東遠征によって成立したのがフレグ・ウルスで通称イル・ハーン国。
大元ウルスと対立していたカイドゥが死んだ後、中央アジアに成立したのがチャガタイ・ウルス。

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 17:19:55
長弓騎馬なんて使ってたの日本だけ?

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 16:41:24
長弓は馬上では扱いづらいからね。
日本の場合は、弓の形を上下非対称にすることでその問題をクリアしたんだけど、
この非対称形ってのは、世界の他の弓とは異なる日本の弓の大きな特徴。

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/04(日) 01:06:30
日本人の得意とするところ

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/04(日) 21:17:15
バイバルスのマムルーク軍の方が強いんじゃね?

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 17:42:08
アイン・ジャールートの戦いでマムルーク軍が勝ったのは、単にマムルーク軍の方が
モンゴル軍よりも数が多かったから。
マムルークたちは、カスピ海の東北方草原のトルコマンやカフカズのシルヤッス、
南ロシアのキプチャックなどの出身で、その戦術は遊牧民のもの。
基本的にモンゴルとマムルークは、似た物同士なんだよ。
寡兵でモンゴル軍を撃破した鎌倉武士なら、マムルーク軍にだって楽勝だよ。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 19:31:12
渡海侵攻の不利を無視して鎌倉武士最強とか言われてもねえ。
上陸直後は機動の余地が無いし、消耗した兵や武器の補充は出来ないし
船酔いもあるし、何よりたった2万5千の軍を輸送するのに国が傾く
ほどの船舶を建造しなければならないほど金がかかる

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 20:18:13
>>36
対馬海峡の渡海侵攻なんて大したことないぞ。
文永の役のモンゴル軍よりも少ない1万9千という兵力で朝鮮に渡った小西行長は、
上陸したその日に釜山城を攻略し、3週間で首都・漢城を征服してる。

それに文永の役で日本軍は、上陸直後にモンゴル軍を叩いたわけではない。
騎兵主体の日本軍は、機動戦術を取りやすい場所にモンゴル軍が進軍して来るのを
待ってから、戦いを挑んでいるのだ。
その結果、わずか一日でモンゴル軍が敗退したのだから、言い訳無用で武士の方が
強かったんだよ。

あと、2万5千の軍を輸送するための船舶を建造も、当時の高麗の造船能力なら特に
問題なし。
高麗は1268年にもクビライの命令で大型戦艦千艘を建造している。
この時は、クビライから視察のために派遣された役人が戦艦の出来に満足し、更に
100艘を追加注文した程だった。
ちなみに文永の役の際の造船では、900艘の内で大型船は300艘のみで、大多数は上陸
などに使う小舟。

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 04:20:15
よかったなw

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 01:07:30
>>37
文禄の役の時の朝鮮はろくな軍隊もなく、日本が攻めてくるとも思っていなかった
のだから参考にはならない

元軍主力と日本軍が戦った博多から筥崎にかけては海から1キロも離れておらず
背後に海のある元軍が自由に機動できる余地はあまりない

それと一日目の夕方には日本軍は博多・筥崎を放棄しており、戦闘そのものは
元軍が勝利している。ただし最終的には元軍は撤退しているので、戦争全体では
日本軍の勝利で間違いない。

高麗の造船能力、というか国力はかなり疲弊していたはずだが。建造できた
からといって余裕があったということにはならないと思う。詳しく知っているわけでは
ないのでこれ以上言うつもりはないが、言いたかったのはたった2万5千の兵を
運ぶのにいちいち国を挙げて船舶を建造しなければならないほど渡海侵攻は
手間とコストがかかるということ

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 13:07:49
元軍の上陸地点は博多や筥崎の正面の息の浜ではなく、もっと西側の百道原や生の松原の
付近だから、海を背後に日本軍と戦ったわけではないよ。

それから元寇の時代、博多や筥崎に戦略的な価値なんか皆無。
戦後の歴史研究者たちは、元軍が大宰府への進軍を完璧に阻止されたことを誤魔化すため、
元や高麗が全く争点にしていない博多や筥崎を持ち出して、日本軍が負けたかのような
印象操作をしている。

コンパスとか無いこの時代、元の艦隊は山や岬などの地形を利用して、船を運航させる
「沿岸航法」。
文永の役当夜は雨が降っていたから、月明かりは無いし星も見えない。
博多湾や周辺海域の土地勘も無い。
元軍は夜の内に日本から撤退しているけど、戦闘そのもので日本軍にボロ負けし、それ以外に
生き残る術がないという状況でもない限り、900艘もの艦隊を夜中に出港させるはずが無いじゃん。

案の定、元の艦隊はその夜に岩に触れて大惨事に陥るわけだが、その時日本軍は馬蹄飼場良く
兵糧潤沢な水城で、「蒙古の一方の総大将の劉復享をやっつけた」と言って大喜びしていた。
文永の役は、日本軍のワンサイドゲームだよ。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 05:58:05
博多が鎮西探題が置かれるまで戦略的にそんなに重要ではない、てことか?
ウリャンハタイが何だかんだいってハノイでしばらく過ごしてたのを見ると頷けないこともないが、それだと、どうして博多は守らなかったんでしょ?

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 10:05:42
>>41
もともとこの頃の日本の村落は、守れるような造りにはなっていないから。
さすがに無防備のまま放置して置くのはまずいと思ったのか、文永の役の後
防塁を作ったんだけど、これってあくまでも市民を守るための物なんだよね。
弘安の役で、河野通有とかは防塁の前に布陣していたし。

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 01:47:53
>>40
元軍は百地原・生の松原とは別に博多にも上陸している

博多に戦略的価値があろうがなかろうが、日本軍がそこで戦って退却した
ことに変わりはないんだが

夜の闇に紛れて退却するというのは敵の追撃を避けるための常套手段で、
ボロ負けの根拠にはならない。というか、敵の目前で白昼堂々と退却しようと
する指揮官はあまりいないと思うが。

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 02:20:42
>>43
金剛仏子叡尊感身学正記
「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多(博多)、即退散畢」

同時代の人間の日記に「即退散」などと書かれている以上、文永の役が元軍のボロ負け
だったのは史実。
問題なのは、どのようにボロ負けしたかだけだから。

元軍は日本から撤退する際、志賀島に座礁した兵士220人を見捨てて、逃げ去ってるだろ。
同じ撤退でも、例えば慶長の役の日本軍は露梁海戦の後、南海島に取り残された横山久高
率いる兵士500余人の救出作戦を行なった上で、撤退してるんだよね。
その辺が、ボロ負けした軍と、そうでない軍との差だ。

あと、元軍が博多正面から上陸した事を裏付ける史料ある?

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 12:57:58
第一回目の攻撃は日本と南宋の連携を断ち切るための示威行動だったという説があるね
食糧武器の不足から撤退したというが、たった数日でそうなるということは最初からロクな準備もしてなかった傍証

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 15:41:09
元が完璧に負けたことを認めたくないあまり、元の装備が貧弱だったから負けたと言いだすのか
あわれ蒙古厨w

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 03:50:29
>>45
まず、元軍が余りにもあっさりと敗退したため、文永の役は示威行動としては、まったく
機能していない。
日本の貿易船は何事も無かったかのように南宋へ向っているし、鎌倉幕府はあきらかに以前より
元に対して強気になっている。
「異国征伐」と称して元に攻め込む計画すら立てていたのだ。

あと、元軍の撤退理由が食糧不足などという記録は無い。

武器にかんしては、元史に一応撤退理由として「また矢尽き」と記されてはいる。
だが、それを言うなら、1257年にタガチャルが南宋侵攻から撤退した理由について元史には、
「秋の長雨のため」と記されているし、1260年にフレグがシリアから撤退した理由については、
ルイ9世宛ての書簡で「馬匹に与える飼料と牧草が尽きたため」と記されているんだよね。
こういった言い訳は、モンゴル軍が撤退する際のお約束だから、通常なら真に受けたりはしない。
戦後の日本史研究者たちは、「日本軍が強かった」以外の説なら、どんなに根拠が貧弱でも、
平気で採用するけどね。

フビライが日本征服の意図を明確にし、高麗に準備の開始を命じたのは1268年。
それから、1274年の文永の役まで、準備期間は十分過ぎるほどあったからな。

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 12:25:02
日本の荒い海は数個師団に相当する、と近代でも言われていたな
実際、元軍に勝ったベトナムとかジャワとかもそうだけど騎兵が活用できない地形を利用して迎撃ないし伏撃・追撃は対モンゴル戦勝利のセオリー
バイバルスのように、蒙古騎兵とよく似た弓騎兵を養成して叩く手もあるけどね、文化とかの理由で普遍化は困難

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 12:39:17
個人的には少弐景資が文永の役の元軍副将・劉復亨を射倒したのが大きいと思う
船を焼いての徹底攻撃を主張したのは高麗軍の金方慶だが作戦会議で全く賛同を得られなかったようだ
司令部からの損害が心理的に影響を与えたんだろう

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 22:14:56
元の大軍を2度にわたり撤退させたのが、日本ではなく
ヨーロッパ辺りの国だったら、条件がどうであろうと
もっと高く評価されていた気はする。

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/16(金) 11:12:31
宗助国らの奮戦こそ鎌倉武士の華
圧倒的大軍相手の命尽きるまで抵抗した
一方残虐な元・高麗軍は民衆を虐殺し、数珠繋ぎで船べりに並べるという非道まで行った
これが戦後に旧南宋人は助けられたが元人と高麗人は容赦なく処刑される伏線になった

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/21(水) 12:00:14
元軍は長門(山口県)にまで上陸したの?
言われある土地は残ってるのに史実的には否定されてるっぽいけど

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/24(土) 02:00:49
日本の地形はモンゴル軍苦手じゃね?

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 18:08:35
文永の役、モンゴル騎馬軍団は5分の1の兵力に過ぎない武士に歯が立たず、たった1日で敗退。
弘安の役、更に江南から10万もの大軍を送り込んだが、日本軍によって皆殺しにされ、僅か3名しか
生還できず。
この2つの戦いが、その後の日中関係に与えた影響は大きい。

実は明の朱元璋も、日本に対して武力侵攻をちらつかせ、脅迫をしてきたことがある。
しかし、それに対する日本からの返答は、

「天下は天下の天下であって誰か一人の天下ではないのです。我が国には、水沢の地や山海の洲にも
備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしません」

という挑発的なものであった。
当然、朱元璋は激怒したが、あの強大なモンゴル帝国ですら完敗した日本に、自分が攻め込んでも
勝算は無いと考え、泣く泣く矛を収めるしかなかった。

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 09:14:17
>あの強大なモンゴル帝国ですら完敗した日本に、自分が攻め込んでも
>勝算は無いと考え

朱元璋がそう漏らしたの?

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 15:46:14
万単位の蒙古騎兵による釣り出し・伏兵戦術なんかが活用されたヨーロッパの戦いでは西欧騎士軍団は壊滅(リーグニッツの戦い)
相手が戦力投入するだけでも苦労する日本海の賜物

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 05:04:18
>>55
明史・卷三百二十二列傳第二百十外國三
「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 05:24:34
>>56
対馬海峡を超えて戦力投入することなんか、大昔から誰も苦労なんかしていないぞ。

391年に日本から朝鮮半島に渡った軍勢は、新羅・百済を征服。
663年の白村江の戦いでも、日本から2万7千もの大軍が朝鮮半島に渡っているし。

現実に文永の役でも弘安の役でも、普通に万単位の元軍が渡航してるじゃん。
その結果、ヨーロッパで西欧騎士軍団を壊滅させた蒙古騎兵は、鎌倉武士に完敗したんだから、
鎌倉武士>蒙古騎兵>西欧騎士軍団。

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 10:10:01
>>58
苦労してないって……
もしかして兵士も必要な物資も泳いで渡れると思ってるの?w

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 13:02:14
>>57
おお、それ知らなかった。情報サンクス。

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 22:34:47
>>59
兵士や必要な物資の輸送なんか、古代の日本軍ですら余裕で行なってるだろ。
13世紀の元軍は、古代日本以下なの?

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 00:35:45
橋頭堡があるかないかで随分違うんだけどね

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 04:55:48
>>62
例えば文禄の役の日本も、朝鮮半島に全く橋頭堡を持たない状態で渡航侵攻したが、
上陸するや破竹の進撃で2ヶ月後には首都・漢城を征服していた。
それと比較して元寇の元軍は、あまりにも情けなさ過ぎると思わないか?
同じ対馬海峡なのに、日本側から朝鮮を攻めるのと、朝鮮側から日本を攻めるのとでは、
何でこんなに歴然とした差があるの?
元寇でモンゴル軍が九州に橋頭堡を築くことすらできなかったのは、単に日本軍よりも
弱かったからじゃん。

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 10:16:42
>>10
当時の十字軍に可能だったチョイスというのは、スローな陸路か海のハイウェイかという暢気なものではなく
バルカンやアナトリアの勢力と小競り合いを繰り返しながらパレスチナまでの道を切り開くか、
それともヴェネチア人やジェノヴァ人などの船主に大金を払い、難破やとんでもない所へ流されるリスクを負って
地中海を横断するかというものだった。
艦隊の4分の1しかエジプトへ渡れなかった第7次十字軍や、船が難破して捕虜になった獅子心王の例はいうまでもなく
チュニス侵攻なんて北アフリカとシチリアの比較的短い距離で嵐にあって大損害を受けてる。
陸路がオープンだったらどうだったか、というのは後世のオスマン朝の例を考えると参考になる。

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 13:13:27
日本軍の指揮系統はぐちゃぐちゃ
「その日の大将」を決めて戦っていた。つまり1日ごとに責任者すら違う
手柄欲しさに抜け駆け・逆に勝手な撤退当たり前
博多を焼かれ古代の水城跡まで退却を余儀なくされている
文永の役で金方慶の積極策を元軍が却下してくれたお陰で助かった

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 14:12:06
>>64
オスマン朝の例は確かに参考になるな。
地図でオスマン帝国の版図を見れば、あきらかに地中海、紅海、ペルシャ湾に
沿って勢力を伸ばしているからね。
海運がいかに軍事侵攻を容易にするかが一目でわかる。

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 14:58:13
>>66
オスマン朝の版図の主要部であるバルカン、アナトリア、パレスチナ、イラク、エジプトが
どういうルートを使って征服されたのか調べてみるといいよ。
というか「ペルシャ湾に沿って」というのはちょっと地図を見直したほうがいいと思う。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 15:20:51
>>67
アラビア半島のヒジャース地方については?
陸路では飛び地になっているんだけど。
オスマン軍が陸路北アフリカまでエジプト経由して侵攻したと思ってる?

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 17:19:31
>>65
「日大将軍」が「その日の大将」という意味だなんて、アホな説明を鵜呑みにしちゃ駄目だ。

「その日」以外の1272年4月17日から1ヶ月間に異国警固に就いた「薩摩国御家人」の成岡氏に
対しても、鎮西奉行の少弐氏が勤務終了証明書を交付している。
つまり、最初からずっと少弐氏が日本軍の大将として九州防衛を指揮していたわけ。

あと、金方慶が引用している「孟明の焚船」や「淮陰の背水」は、あきらかに劣勢な側の軍が
持ち出す兵法だから。
金方慶は、20日の戦闘で日本軍にボロ負けした元軍が、翌日も生き延びられるかについて議論
しているんだよ。

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 10:43:11
>>69
日本の後進性を証明されたくないからって、軍政・行政官と戦闘指揮の最高責任職をごっちゃにするのは酷いw

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 12:09:25
>>69
その少弐氏は明らかに三男の景資じゃないだろ
長男の経資じゃないとおかしい
補任されていない人間が発給したとするのなら偽文書ってことに……

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 21:26:26
>>68
ヒジャースがオスマン朝の版図に加わったのは、セリム1世が「両聖都の守護者」であった
マムルーク朝に侵攻しカイロを陥落させたので、メッカとメディナの支配者が使者を送り
オスマン朝の庇護下に入ったことによる。
アルジェやチュニス、トリポリなどを占領したのはバルバロッサなどスルタンに帰服した海賊衆で、
当時オスマン朝が欧州や中東の戦役に投入していたような圧倒的なリソースを海運により
上陸させることによって征服したわけではない。

当時のオスマン朝の軍事侵攻で海運によるものはクリミア、ロドス、クレタ、南イタリア、マルタ
などが有名だが、島など陸路で到達できない場所や、陸路を用いた場合侵攻ルートの側背から
攻撃を受ける危険があるなどやむを得ない事情による場合が大半で、可能な場合はほとんど
陸運が尊重されていた。

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 17:15:06
>>70
あのねぇ、そもそも大宰府ってのは、大昔から西日本の防衛を主要な任務としてきた機関だから。
1019年の刀伊の入寇でも、当然のように大宰権師の藤原隆家が日本軍を指揮している。
少弐氏ってのは、もともとは武藤だったのが、大宰少弐に任じられて代々その職を世襲したことから、
「少弐」を名乗るようになった一族。
九州有事の際は少弐氏が日本軍の指揮を執るなんてことは、当時の人間には常識レベルの話で、
指揮系統に混乱が生じる余地など全く無いの。
現実に元寇で日本軍は圧勝し、軍組織においてモンゴル軍よりも優れていた事を証明しているだろ。

>>71
成岡氏に覆勘状を交付したのは少弐資能。

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 11:57:39
>>73
話の筋をまったく理解いてないんじゃないの?
実戦指揮官が日替わり体制だったということを言っているわけ
職責にあったのが長男にもかかわらず、大将は三男だった史実を指しているわけ
だいたい混乱が生じないのなら「味方は勝手に戦っていてどうにもならないから一旦水城に退こう」なんてことにはならないよ
弘安の役では執権の名代が下向するなど改善されているが文永の役では明らかにおかしい

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 12:32:33
>>74
実戦指揮官が日替わり体制だったということを証明する史料は存在しないし、
「味方は勝手に戦っていてどうにもならないから一旦水城に退こう」なんて
ことにもなっていない。
実際、モンゴル軍に勝ってるじゃん。

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 12:57:55
上陸阻止すらできずに箱崎八幡宮や博多まで焼き討ちされ、水城まで退却させられているのに勝ち?
だいたいなんで親父やその親父から職を継いだ長男が同陣しているのに三男が大将なんだよ
普通におかしいことだらけじゃん


77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 13:12:24
箱崎八幡宮や博多なんて最初から争点でもなんでもないから。
元や高麗が問題にしているのは大宰府のみ。

更に、大宰府を目指して侵攻する敵を水城で撃退するってのは、白村江以来、
日本の基本的な防衛ドクトリン。
それにもかかわらず、元軍は水城にすら指1本触れることが出来なかったんだから、
文永の役は日本軍の圧勝以外の何物でもないだろ。

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 13:16:04
>>77
なら最初に海岸で迎撃した日本軍は馬鹿ってこと?>防衛ドクトリン
やっぱり無茶苦茶じゃん
都合の良い解釈をするのは勝手だけど、チラシの裏じゃないんだから客観性を少しは考えてね

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 13:31:42
>>78
客観的な事実は日本軍勝利だよ。
当時の文献には、そう書いてあるだろ。

鎌倉年代記裏書
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北」

帝王編年記
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」

おまけに敵側の高麗史にも戦って負けたと書いてあるしな。

高麗史表
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本、至壱岐戦敗、軍不還者萬三千五百餘人」

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 13:39:21
>>79
「倭兵大敗伏屍如麻」(「高麗史節要」)

日本側の『八幡大菩薩愚童訓・筑紫本』にだって「懸出ル程ノ者漏テ返ルハ無カリケリ(向っていったもので帰還できるものは無かった)」と苦戦を明記している
要するに、相手が帰ってくれたから「酷く叩かれたが防衛目的は達した、結果的には勝ちだ」としただけ
日本側が強かったから、なんてそれこそどこにも書いてないよ

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 13:45:56
だいたい文永の役がそんなに楽勝だったら
・異国警護番設置、北条一門及び幕府直臣層の派遣による指揮系統・軍事体制整備
・民衆を動員しての今津から宗像にまで及ぶ防塁作り
・安達一族に率いられた、主に関東衆から成る他地方からの増援
などの諸改革を進めて防備を固めた理由がそもそもなくなるよ

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:03:05
>>80
高麗史節要には「至一岐島、撃殺千餘級」などと書かれているが、この時壱岐を守っていた
武士は平景隆率いる100騎だけ。
あきらかにあり得ない戦果が書いてあるんだが・・・

「蒙古襲来絵詞」に描かれた高麗軍は、赤坂で菊池武房に蹴散らされて敗走している。
武士にまったく歯が立たなかったのを隠すため、民間人でも殺して戦果を水増ししたんだろ。
元史日本伝には、日本を敗ることが出来なかったから、その埋め合わせに四境を虜掠した
と書いてあるしな。

八幡大菩薩愚童訓は八幡神の霊験を示すために書かれた文献だから、武士が苦戦したと
書くのは当たり前。
鎌倉年代記や帝王編年記のような史書とは、同列に扱えない。

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:13:23
なんで一方を恣意的編纂と決め付けるくせに、もう片方は無条件で信じられるんだ?
1回目は初体験の異国からの大規模侵攻(厳密には半島からの攻撃は最初じゃないんだが)に苦戦したが、相手の事情もあって助かった
第2回目はしっかり学習して防備固めて勝利
これで何か不都合でも?

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:21:20
>>81
異国警護番設置は文永の役以前。

北条一門及び幕府直臣層の派遣による指揮系統・軍事体制整備は、文永の役の
圧勝で強気になった幕府が、元に攻め込むことを想定しておこなったこと。

今津から宗像にまで及ぶ防塁作りは、あくまで非戦闘員に対する虜掠を防ぐため。
弘安の役で、河野通有などは防塁の前に布陣していたし、志賀島や壱岐の元軍に
対しても日本軍の方から積極的に攻勢を仕掛け、防塁に篭って戦おうなんて姿勢は
皆無だった。

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:26:41
>>84
長門警護番の間違いだな(設置1275年)
そして長門探題設置(1276年)
幕府は九州の防備だけでは不足として、本州の警護も強化していた
いかに危機感が強烈だったかわかる

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:29:57
防塁に頼らなかったのなら、河野通有の『後築地』が評判になるかぁ?
だいたい当時の日本の武士団は緩やかな封建制で、動員から武装・指揮系統や情報伝達システムあらゆる点において内戦レベルで止っていた
有効に戦える条件自体が防御戦という一点しかない

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:35:30
>>84
明らかに間違い
異国征伐の命令を受けたのは安芸守護の武田氏と鎮西奉行少弐氏
任命(命令)文書発給の年次が同じだからって嘘はいけない

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:38:32
>>86
実際に弘安の役において、防塁では戦闘が行なわれなかったから。
それに弘安の役は、日本軍が配備されていない志賀島・壱岐・鷹島などに上陸し、
野戦築城をして迎撃態勢を整えた元軍を、日本軍が攻撃するという展開。

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:45:48
>>88
日本側の配置は有力御家人がそれぞれ自分達が労役で築いた防塁に拠るもの
防塁を避けて上陸した元軍を迎撃にいった武士はともかく、そういった連中が遊んでたとでも?

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:54:04
防塁の役目は何も篭るだけじゃない
弘安の役の戦地図を見れば分かるとおり、文永では好き勝手に上陸できた元軍がより大規模でありながら攻撃位置を限定させられている
文永と違って大動員により総兵力で元軍を上回っていた鎌倉幕府軍は、元軍が不自由な上陸点で戸惑っている隙に大軍を投入できた
だから戦況が全く以前とは違った

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 15:10:00
>>90
戦地図を見たんなら分かると思うが、元軍の上陸した志賀島に大軍を投入する
ことなんか出来ないよ。
日本軍は志賀島で迎撃態勢を整えたた元軍に対し、圧倒的に少ない兵力で攻撃
しながら連勝し、博多湾からの撤退に追い込んでいる。
武士の戦闘力が元軍を遥かに凌駕していた証拠。

>>87
どの部分が嘘よ?

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 15:19:23
そんなに武士の個別戦闘力が圧倒していたのなら、四百対百(騎、という表記だから他に従者・島民の臨時徴収兵等もいた可能性があるが)程度の差で平景隆勢が全滅にまでおいこまれないんじゃ?
志賀島戦(海戦含む)だって、少弐氏や大友氏といった幕府役職もちの有力御家人部隊が集中投入されてたし

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 15:49:36
>>92
平景隆勢は丸1日持ちこたえているんだから、壱岐は普通に大善戦だと思うがな。
400というのは、最初に船から下りて東方と敵方を三度ずつ拝んだ元兵の数で、
戦闘中に増員があったという可能性もあるし。
実際、高麗史では高麗軍の朴之亮や金方慶の婿の他に、後から副元帥の洪茶丘が
追加投入されている。

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 18:39:40
志賀島の戦闘は元軍は上陸したものの先へ進めず結局撤退、でいいんだっけ?

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 07:59:38
なんか武士が負けた戦も強引な推測交じりで大善戦とか無茶苦茶だな
弘安の役はともかく、文永ではズタボロ。武士達は本陣である箱崎八幡宮だって陥落している
しかも自分たちが有利な戦場として選んだ赤坂から追い落とされて、だ
父や兄らを何故か無視して少弐景資が指揮を取っているあたり、「武士は指導者を推戴する」慣習で大将を決めてたんだろう。組織的にまともに戦ったかも疑問
だいたい武士達にはおおよその一般慣習以外、統一された軍法や軍制すら存在しない寄せ集め
武装も軍制も劣っている側が、どうして個別単位で優位に立てる?そんな理由は「地元だから」以外無いよ

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 10:51:24
日本軍が大陸の軍隊に勝てそうな点って無い
統一された指揮系統どころか軍法すら無い。補給はほぼ自弁で、兵力を常駐させるだけで御家人が貧乏になっていく状況
強引にでも見つけるとすれば、弓矢の装備率ぐらいか?
戦闘員ほぼ全てが弓を持っていた日本に対して、槍兵なんかは投射武器がない大陸軍
一人当たりの弓矢の投射量だけは勝っていた可能性がある
だから元軍は矢の備蓄が思ったより早く尽きて文永では早期撤退

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 23:31:35
>>95-96
お前らの書いていることは、全部史料に反しているんだが・・・

>しかも自分たちが有利な戦場として選んだ赤坂から追い落とされて、だ

赤坂から追い落とされたのは元軍の方。
「武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く」
(蒙古襲来絵詞)

>だいたい武士達にはおおよその一般慣習以外、統一された軍法や軍制すら存在しない寄せ集め

日本軍は少弐景資の指揮のもと組織的に戦っていた。
「少弐入道か子息、大将三郎左衛門尉景資、并、平四郎入道子、小太郎左衛門等を始として、大矢野、竹崎、
白石等、更により合て、さんさんに戦ふ」(八幡ノ蒙古記)

>補給はほぼ自弁で、兵力を常駐させるだけで御家人が貧乏になっていく状況

文永の役の当時、兵站は水城に大量に貯蔵されていた。
「さて水城城と申すは、前は深田にて、路一すちあるのみ、うしろは野原ひろくつつきて、水木おほく、
ゆたかなり、飼場よく、兵粮潤澤なり」(八幡ノ蒙古記)

文永の役で軍法や軍制に問題があったのは、むしろ元軍の側だったな。
元史日本伝も、元軍の敗因として、「官軍整わず」と指揮系統の混乱を挙げている。
組織力に勝る日本軍が、元軍を圧倒したのは当然の結果。

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 08:07:07
なんで「それは八幡様の霊験のために書かれた本だから武士の苦戦は信用できない」と理不尽に一蹴した記録からでも都合の良いものだけは信じるんだ?
現実に本陣である箱崎八幡宮まで焼かれてるじゃん
もし苦戦が嘘なら、そもそも水城まで退却したことと矛盾する
だいたい統率が取れてたら「所領のある武士は勝手に戦ってただけだから恩賞無しね」なんて無茶苦茶な幕府裁定が下るわけない

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 08:31:35
「大将軍の船は、風の以前に、青龍、海より頭を、さし出し硫黄の香、虚空にみち、異形の者とも、眼に
さへきるに、おちおそれて、追はれて、にけさりぬ、此ふねも、長門の浦に吹つけられたりと」
(八幡ノ蒙古記)

八幡ノ蒙古記によれば、7月(いわゆる「神風」台風の前に)青竜が出てきて元の大将の船を追いかけていたそうですw

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 22:39:29
だったら元寇については、蒙古襲来絵詞のみを史料とするって事で良いじゃん。
元軍は菊池勢に蹴散らされて敗走。
文永の役は日本軍の一方的な勝利。

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 12:31:29
だからなんでそんな都合の良いところだけをつまみ食いして日本の圧勝と強引に位置付けないといけないのやら
まさかこんな板に偏向思想の持ち主がやってくるはずもないと思うがw

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 22:40:05
偏向思想によって、都合の良いところだけをつまみ食いして来たのは、戦後の
元寇研究の方だろ。

実際に戦闘に参加した武士の実録である蒙古襲来絵詞が存在しているのに、その
中に描かれた集団で戦う武士団や逃げ惑う蒙古兵が、教科書や歴史書ではカット
されてしまうのは何故?

八幡ノ蒙古記よりも後に書かれた菊大路本が、元寇研究のベースにされているのは、
どうして?

鎌倉年代記や帝王編年記に、元軍が合戦で敗北したと書かれていることが、まったく
無視されているのは、如何なる理由によるもの?

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 03:59:02
日本じゃモンゴル軍の本領は発揮できないよ

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 09:01:02
>>102
そりゃあんた、元軍は竜に追われて逃げましたとかいう記述を鵜呑みにはできないだろうw

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 09:25:40
>>104
八幡ノ蒙古記に「竜に追われて逃げました」とかいう記述があるから信用できない
というのなら、その八幡ノ蒙古記を基に書かれた菊大路本を初めとする八幡愚童訓
の群書類従は、それ以上に信用できないってことだろ。
史料の信頼性ってのは、改編を重ねる度に下がることはあっても、その逆はない。
そんなことは、史料研究の大原則じゃん・・・

そもそも、武士の実録である蒙古襲来絵詞が存在しているのに、八幡愚童訓のような
縁起ものを元寇研究の中心としてきた事自体、歴史研究の常道に反することなんだよ。

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 09:37:34
相手が都合の悪い部分はスルーして研究しているんだ!と主張する癖に
自分に都合の悪い武士の苦戦は「八幡様の霊験のためのでっちあげ」とそれこそ根拠無くスルー
普通に馬鹿です、ありがとうございました

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 10:41:40
>>106
>自分に都合の悪い武士の苦戦は「八幡様の霊験のためのでっちあげ」とそれこそ根拠無くスルー

根拠ならあるぞ。
赤坂での戦闘の場面、八幡ノ蒙古記には菊池隊が「家のこ、らうとう等、多くうたれにけり」
と大損害を受けたかのように書かれているが、蒙古襲来絵詞ではその後に戦闘前とほとんど
変わらない100余騎の部隊を率いて、竹崎季長と挨拶を交わしている。
蒙古襲来絵詞には、「武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に
向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く」と、元軍が敗退したと書かれているが、八幡ノ蒙古記
には該当する記述が無い。

つまり、八幡ノ蒙古記が武士の損害を誇張しているか、蒙古襲来絵詞が嘘を書いているかの、
どちらかなんだよ。
武士の実録である蒙古襲来絵詞と、「竜に追われて逃げました」とかいう記述がある八幡ノ蒙古記
を比較すれば、前者の方が信頼でき、後者はバイアスのかかった史料という見解になるのは当然だろ。

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 11:06:19
普通に絵師が勘違いしただけじゃ?w
菊地勢は一門衆から討死を複数出してるし、当主が落馬して死人の山から徒歩で抜け出す状態
どこかに誇張があるとしても、全く無傷というのは無理がありすぎる

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 11:12:55
>>108
>菊地勢は一門衆から討死を複数出してるし、当主が落馬して死人の山から徒歩で抜け出す状態

だから、それがバイアスによる誇張だと言ってるの。
蒙古襲来絵詞は、絵師が勘違いした箇所には、竹崎季長によって注意書きがされている。

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 11:21:59
>>109
思うのは勝手だが、それは「武士の苦戦だけはバイアスに違いない」という先入観がないと受け入れられないレベルの話だしなぁ
そもそも菊池勢はそれだけ大活躍したはずなのに、恩賞貰ったって史料がないんだよね
本当に活躍したの?そっちのほうが疑問

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 11:50:56
蒙古襲来絵詞は、竹崎が「オレがどんな手柄を上げて、その恩賞を認めさせるために苦労したか」という話
恩賞要求の際の証人になってくれるよう頼んだ菊池一族をボロカスに書けるわけが無い

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 11:52:29
>>110
赤坂の戦闘について、八幡ノ蒙古記と蒙古襲来絵詞の記述が食い違っている
のだから、どちらかの文献には、バイアスがかかっていると言う事だろ。
もし、それが蒙古襲来絵詞の方だと思うのなら、その根拠を示せばいいだけ。

あと、菊池が恩賞もらっていない訳無いぞ。
蒙古襲来絵詞では、文永の役で勧賞を賜った者は120余人。
菊池武房については、文永の合戦で名を揚げたと書かれている。

更に、菊池勢が恩賞貰ったってことは、八幡ノ蒙古記ですら認めていること。
「もし勧賞あるならば、賜ひたらん一はんの物を、手向奉らんとの立願なりし
故なりとて、後に大宰府よより注進して、京都より賜はりし甲冑と當社へそ
納めける」

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 11:56:15
>>111
実際に竹崎季長が恩賞要求の際の証人として名前を挙げたのは白石だけ

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 12:05:21
え?その蒙古襲来絵詞の菊池勢と行き交う時の挨拶は嘘?

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 12:06:49
わ・・・わかったぞ・・・
菊「池」と菊「地」をどちらかが間違えて記録していたんだよ!
つまり赤坂で戦った一団と、竹崎が行き違った集団は違ったんだ
これなら辻褄が合う

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 12:12:55
つうかなんでそんなに極端から極端に走るんじゃ。
苦戦は苦戦、活躍は活躍と記述を信じれば良いじゃん。
つまみ食いする意味がまったくわかんね。

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 12:14:30
>>114
文字通り単なる挨拶だったということだろ。

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 12:18:54
武士団の一方的勝利だったら、退却なんてせずに相手を海に追い落としている。
元軍の一方的勝利だったら、大宰府攻撃という事態が発生している。
片方が圧倒した、という展開こそ想定不能だと思うが。

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 12:21:47
菊池氏に与えられた恩賞は甲冑程度。土地をもらえなかったから反北条に走る
しかし鎮西深題北条英時攻撃に失敗して没落。
主観的な手柄と恩賞査定の温度差はあったようだが。

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 12:26:41
>>116
八幡愚童訓を読む際、僅か数名が戦死しただけなのに「家のこ、らうとう等、多くうたれにけり」
と誇張して書き、その後元軍が敗走したことには一切触れなかった文献だという点は、注意する
必要があるだろ。

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 12:27:18
文永の役で竹崎季長が主張した功績は「先駆け」したこと
でも菊池勢が既に戦闘していたのなら、先駆けも何も無い。単に後から少数で突っ込んでいってやられそうになって他の御家人に救助されただけ。
だから菊池勢激闘の痕を書くのは都合が悪かったのです。

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 12:34:16
>>119
恩賞は甲冑程度しか送られなかったなんて書いてないぞ。
菊池氏に与えられた数々恩賞の中から、筥崎宮に奉納したのが甲冑だって書いているんだろ。

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 12:38:20
菊池氏の家伝だと、くだんの甲冑も朝廷からのものだろ
幕府から何か貰ったの?

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 12:41:13
菊池氏も幕府から恩賞を貰ったことにしないと竹崎季長には都合が悪いことになるな。

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 12:55:44
>>121
竹崎季長が、八幡ノ蒙古記に100余騎の菊池勢について、「家のこ、らうとう等、
多くうたれにけり」と書かれた事を知っていて、その痕を隠すために、戦闘の
後でも100余騎だったと書いたということ?
ありえなさ杉。
普通に考えれば、八幡ノ蒙古記と蒙古襲来絵詞は全く別々に成立し、戦闘の前も
後も菊池勢は変わらず100余騎だったということだろ。


126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 13:00:43
つまり菊池勢は戦闘をしていなかった→季長の手柄が成立
戦闘していて、しかもそれなりに勝利しつつも損害を受けていた→季長の手柄が成立しない
戦闘していて、損害もなく大勝利だった→季長の手柄不成立
なるほど、やっぱり怪しい

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 13:13:48
>>126
季長が蒙古襲来絵詞に書いていることは、「戦闘していて、損害もなく大勝利だった」なんだけど・・・

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 13:19:02
なら「先懸け」はやっぱり成立しない
それどころか真っ先に敵と戦い大勝利したはずの菊地氏に恩賞無し(於等々系の赤星氏にはなぜか幕府から恩賞があったようだが)
辻褄があわない

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 13:26:11
絵詞には破損している部分があるそうだし、当時の常識までいちいち注釈入れたりはしないだろう。そこらへんがおかしな事になる原因では?

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 13:28:48
>>128
菊地氏に恩賞無しっていう根拠はなんだ?

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 13:33:03
誰かが戦って追い落とした敵に突っ込んだらそれも先駆けになるのか?
そういう「落ち首拾い」的やり方は当時の武士にとって最大の恥なんじゃ?
だから少弐は幕府に手柄と報告しなかったとか?

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 13:53:57
菊池氏が武功誉められてるのに具体的恩賞が下った形跡がないのは、霜月騒動の影響という話
そしてその不満が孫の探題攻撃に繋がっていく

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 14:58:46
いざー鎌倉!

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 20:59:17
人は、信じたいものを信じる。

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 03:39:03
モンゴルが何としても日本を征服しようって
本腰入れてしつこく侵攻してきたら防ぎきれた?

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 08:00:36
鎌倉武士が世界最強?
笑わせるな、海と荒天のお陰で辛うじて切り抜けただけだろう
ヴェトナムを見ろ。海という防壁が無く、しかも攻撃は三度に及んだ
さらに将帥は日本を攻撃した雑魚武将ではなく、南宋を滅ぼす際に主力を務めた李桓やサトといった名将達
その軍勢を撃破したんだ。副将一人に手傷を負わせた程度で喜んでいる日本と違い、李桓もサトも戦死に追い込んでいる
鎌倉武士が世界最強なら、ヴェトナム兵は宇宙最強か?

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 09:23:15
136
攻め込まれる度に首都を征服されているヴェトナムが、九州にまったく橋頭堡を
築かせずに完封勝ちした日本より、強いわけないだろ。


138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 09:28:22
五十万の元軍を壊滅させた安南軍
十万程度の、しかも属国・降伏兵主体の雑軍を自力撃破できなかった鎌倉軍
優越は一目瞭然ですね

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 10:04:56
>>138
ヴェトナムは1257年に僅か3000の部隊によって首都を征服されているんだけど・・・
更にクビライの機嫌をとるため、王族を人質に送り、貢物を納めるなどの屈辱を
受け入れている。
一方の日本は最後まで元に対して完全独立を維持。

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 10:34:25
単純計算で、ヴェトナムは日本の五十倍は強かったってことだね。
近代ですら日本の海は十個師団=20万人相当の後方支援を含めた戦闘集団に匹敵すると言われている。
こういう自然の防壁を昔の人は神仏に仮託したんだろう。

141 :140:2007/04/07(土) 10:34:55
×五十倍→五倍

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 11:08:21
>>140
その、日本の海は十個師団=20万人相当の後方支援を含めた戦闘集団に匹敵ってのは、
日本から大陸を攻めた白村江の戦いや秀吉の朝鮮出兵では、まったく出てこない話だな。

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 11:15:33
日本の大陸・半島への古代からの影響力は結局消失している
普通に公平に働いてるじゃん。台風はかなり記録的だったようだけど

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 11:24:28
>>143
秀吉の朝鮮出兵で日本軍は、一時は漢城や平壌を占領し、南部の橋頭堡を
7年間も維持したんだぞ。
一方の元軍は2回とも、九州に橋頭堡を築くことすらできず。
あきらかに大差だろ。

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 11:27:48
つまり数百年の間に大陸と日本の差はそこまで縮まったということだろう。
なんで時系列とか無視して必死に日本のみをヨイショする必要があるのかよくわかんね。
公平性があれば、経緯は違ってもより強大なモンゴル軍のほうを撃退したベトナムとかの奮戦を素直に認めるだろ。

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 11:43:08
「日本の海は十個師団=20万人相当の後方支援を含めた戦闘集団に匹敵」
とかいう、まったく根拠不明の基準を持ち出すからだろ。
だったら、ベトナムのジャングルは何個師団に相当だよ?
公平性があれば、国土の大半を征服されたベトナムよりも、まったく九州に
拠点を築かせなかった日本の奮戦を素直に認めるべきだろ。

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 11:45:32
「近代でも」という但し書き付のレスに対して、なぜか百年(あるいは千年)の時間差を無視して必死で噛み付く。何かあったのか?w
先祖が元寇に従軍した鎌倉武士だったとか?

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 11:50:40
武士団は個々の手柄に拘って連携が悪かったっていうけど
これって考えてみたら別の意味で手強いよな
特定の指揮系統があるわけじゃないから、アメーバみたいに分裂する相手をいちいち全て潰して廻らなきゃならない可能性もある

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 01:32:56
>>148
佐藤大輔がそういう説というかシミュレーション?について書いてたような

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 11:34:52
つまり最強鎌倉武士団=原生動物?

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 12:02:27
安南軍にはかなわない。弘安の役の鎌倉軍ですら20万でしょ。
その二倍以上の軍勢が攻めて来たら、日本なら壊滅してた可能性大。
特に五千程度しか用意しなかった文永で元が本腰だったら……。
海さん、台風さんありがとう。そして甘い見通しし過ぎの元・高麗軍m9(^Д^)プギャー

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 17:31:58
日本軍は文永の役の際に5000の兵力で、2万5000のモンゴル軍に勝利。
20万の鎌倉軍なら、計算上はモンゴル軍が100万でも十分迎撃可能だな。

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/08(日) 20:48:56
148
それは所詮、烏合の衆に過ぎない。
潰すのが厄介なだけで最終的な勝利を掴むことは有り得ない。

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 03:19:10
モンゴル兵は皆早く帰りたかったんだよ

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 12:47:12
水城って天智天皇時代の遺跡でしょ。ここが補修されてたとか兵糧溜めてたとかの記述は筑紫本にしかないし
そんなところを頼りにしなきゃならないレベルが当時の日本の軍事能力
蒙古襲来の危険が分かってるのなら、対馬や壱岐の味方・民衆収容とかせめて城塞建設とかやっとけよ

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 14:26:18
>>152
( ゚д゚)ポカーン
歴史ウヨってやつかこれが

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 19:26:20
あのさ、おれも君たちの大嫌いな在日だが。在日3世。
別に嫌われようがこっちはどうでもいいよw

日本という国における「楽して稼げる職業」は在日・帰化人が握ってるし(笑)
脱税もしまくりで、相続税も免除なのよw。闇口座も仮名で作り放題w。
世代を経るにしたがって金が増えてく寸法さw。パチンコ、サラ金、日本の長者番付にのってるのは在日なんだよw。
金あるから在日でも日本人女とやりまくり。さらにはレイプしても全然バレないw
あと数年で日本の参政権も取得できるし(爆) 既得権益最高!

俺達はもうお前達みたいに毎日毎日職業とか将来とか金の心配なんかしなくていいんだよw
バックに朝鮮総連や創価学会がついてるし、働かなくても行政から月20万の金入ってくるしねw
今俺達が考えてるのはもっと大きいこと。
いかにしてこの日本という国をボコボコにいじめ抜いてやるか、ってこと。

つまり、日本の中に、俺たち朝鮮人、韓国人の血を増やして在日を増やす。
んで日本人を少数派にしてその日本人をいじめたおす。んでこの国を乗っ取る。
今はもうその最終段階に入ってるわけ。
平和ボケした危機感ゼロのお間抜け日本人は気づいてないがw

例えば韓流ブーム。あれは在日が作ったって知ってる?
あれだけ大規模なブームを作れるくらい、もう日本の中で在日の力は最強なんだよ。

自分達を地獄に導いてるとも知らずに毎日毎日テレビで韓国をヨイショしてくれる日本人w
韓流ブームのお陰で在日や韓国人へのマイナスイメージがプラスイメージになった。
そして日本人が韓国人や在日と結婚する数も圧倒的に多くなった。
つまりもうあと30年で日本は完全に在日主体の社会になるよ。

たった100万人に満たない在日に使われる1億人の日本人w お前ら糞日本人に一生地獄の生活を見せてやるよw

どう?ムカムカする?(爆)
でもせいぜい今みたいに2ちゃんで数十人ぐらいがチョン死ねって言うぐらいだろうね(爆)


158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/10(火) 03:52:12
そこは朝鮮韓国をモンゴル変えるところだろう・・・

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/10(火) 09:02:50
チャンパ攻めでも元軍は暴風雨にあって大打撃受けてるんだよな
台風は連中にとって鬼門か?

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 00:12:07
>>155
現実に存在する城塞を頼りにするのは当たり前の話で、レベル云々の問題ではない。
それに、この時代の兵站収集はかなり組織的に行なわれていたから、それが日本軍の
本陣である水城に貯蔵されていたとしても、別に不思議じゃないだろ。
あと、対馬や壱岐に元軍を撃退できるだけの兵力を常駐させて置くなんてことは、
最初から不可能だし、民衆収容とかも13世紀の国家に求めることじゃあないよな。

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 04:17:13
とてもじゃないが強かったと思えんヴァイ

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/14(土) 16:19:06
世界最強じゃなくても元寇は鎌倉武士の大勝利。

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/14(土) 20:39:14
与野党総朝鮮人
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/yotoyato.htm

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/14(土) 22:02:37
元寇は嵐がなくても鎌倉武士団が勝っていると思うよ。
博多一帯を制圧できたとしても、
山地や森林が多い日本で、
地図もないし土地勘もない大陸の軍隊が勝てるはずがない。
あちこちで、桶狭間が繰り返されるのが落ちだろ。
鎌倉武士が最強だとは思わないが、
日本国土防衛なら、モンゴルだの十字軍だのイスラムが来ようとも
負けないだろうよw

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/15(日) 15:17:07
戦後の元寇研究がインチキだということを示す例に、武士の弓の性能が、元軍の
それに比べて、著しく劣っていたという話がある。
これは、黒田俊雄が中央公論社の『日本の歴史8 蒙古襲来』の中で書いていること
なのだが、読んでみると何故か日本の弓の「有効射程」と元軍の弓の「射程」を
比較している。

P98〜99
「ところが、元軍の矢は二町(220メートルぐらい)ほども射程があるので、
(日本側の矢は有効射程100メートル以内とみてよい)、味方にたちまち二人
手負いが出た。景隆らは城(といっても簡単な館だが)にたてこもって防戦
したが、衆寡敵すべくもなくついに城の内で自害した」

「有効射程」が「射程」より短いのなんて当たり前じゃん・・・

更にこの「日本側の矢は有効射程100メートル以内」という話も、まったくの根拠不明。
文永の役で、武士は一町(110メートルぐらい)の距離から正確に元兵を狙撃して殺し、
大笑いしたという記録だってあるのだ。

戦後の歴史研究者たちは、武士に悪意を持って印象操作しているとしか思えねーぞ。

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/15(日) 19:41:12
>>165
鎌倉武士の鎧は厚く頑丈で元軍の矢は鎧を貫くことができなかったそうだよ。
全身針鼠のように矢が刺さっても平然と切り込んで行った武士もいた。


167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/16(月) 10:49:32
100メートル以内も110メートル以内もたいして変わらんだろw

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/16(月) 13:23:12
台風のせいじゃない?


169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/16(月) 15:49:17
>>167
一般的に鎌倉時代の日本の矢は「射程」四町(440メートルぐらい)とされている

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/16(月) 16:12:30
>>168
1回目の文永の役では、台風は無関係。
完全に武力のみで武士は元軍に勝利。

2回目の弘安の役では、元軍は6月初めに博多に来て撃退され、それから2ヶ月間
武士から逃げ回っているところを、7月末に台風に遭遇。
船が壊れて逃げ続けることが出来なくなった元軍10万は、武士に皆殺しにされた。

普通に実力の勝利だろ。

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/16(月) 23:20:50
>>170
地の利だって。
武士共が大陸で戦ったら流石に負けるって。
実力があったわけじゃないよ。

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/17(火) 08:50:46
蒙古弓と和弓の詳しいスペックってどこかにないですか?

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/17(火) 23:23:29
吉川弘文館から出版されたばかりの新井孝重「戦争の日本史7 蒙古襲来」。
P57で「弓は短弓で飛距離は200bもある。日本の長弓の二倍はあった」などと
書いているから、参考文献の頁を見たら案の定、黒田俊雄の「蒙古襲来」が。。。

吉川弘文館は「日本史研究における戦争史・軍事史研究を活発に推し進める
魁となれば」などど言って戦争の日本史シリーズを刊行しながら、「射程」と
「有効射程」の区別もつかない奴に本を書かせちゃ駄目だよね。

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/18(水) 09:11:24
蒙古弓の有効射程はどれぐらいだったんでしょう?

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/19(木) 04:33:29
>>172>>174
イギリスのロングボウのように単一素材の弓だと、強度の問題で張力に限界があるが、
日本の弓もモンゴルの弓も複合弓なので、使用する個人の腕力次第で、いくらでも
張力を高めることができる。
同じ張力の弓なら、日本の方が矢の均一性や反発力が高いため、命中率や殺傷力が
モンゴル軍を上回ることになる。

176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/19(木) 05:33:50
ここwithとガーデンは全部懸賞応募すると登録させられますね?
しかもサクラ(男)がかぶっててどれも登録後すぐにメールが来ます。
元ジャニーズ(後ろで踊ってただけだけど)の永瀬 俊
(写メール有りとずっとシカトしてるとそのうち送ってくるの2方法有り)
大型テレビを懸賞で当たったからあげますという
(名前損失すいません)人と「誠」メールの始めは『ここはどこ?』という文章から始まる男。
とにかく女になって登録するとメールが来る事来る事…。
しかも全員サクラ〜。出会い系は4月はサクラは満開のようです。
それと、もう一つのココhttp://www.k
oisonadx.com/?2ch34
(↑URL繋げて見て!)ココってアド交換して直メでアポしたんだけど、、
直接会ってから断られたんだけど、これって新種のサクラ?教えてください。


177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/19(木) 08:17:36
沖縄県の方へ(命に関わる注意事項です)

沖縄県での選挙ですが、どうか民主党だけは避けてください。県民の生命に関わる可能性があります。
民主党の最大の公約は一国二制度(※)ですが、一度「一国二制度 沖縄」等で検索をお願いします。
この際、民主党のHPで調べても良いです。以下の注釈↓と矛盾することは書いてないはずですから…

※一国二制度
 簡単に言えば沖縄を中国と日本の共有物にし、そこに3000万人の中国人を入植させます。
 (つまり沖縄人口の 96% を中国人にして、実質、沖縄を中国人の居住地とします。)
 さらに「自主」の名の下、沖縄で有事が起きても自衛隊は干渉できません。
 3000万人の中国人が、少数派となった130万人の日本人に何をしても、です。
 そして中国人の反日感情の強さは、ほとんどの日本人の理解を超えるものです。

今回の選挙で民主党が勝った場合、「自主」「発展」を連呼しつつ段階的に進めていくことになります。
自主と言っても、自主を認めるのが「住人の96%が中国人となった」後だということに気をつけてください。
発展と言っても、新沖縄の少数派となった「少数民族日本人」の発展ではないことに気をつけてください。

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/19(木) 22:08:01
>>171
何を根拠に「実力があったわけじゃない」とか思ってるの?
戦後の元寇関連書籍には嘘八百しか書かれていないのに。

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/19(木) 22:29:56
細かいことはどうでもいいが
鎌倉武士が世界最強に同意
でなきゃ今、日本国はないでしょ
中国領になっているか、北朝鮮のような国になっていたと思う
勿論2ちゃんねる 書き込むような香具師は収容所送り決定!


180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 00:17:02
新井孝重の『戦争の日本史7 蒙古襲来』(吉川弘文館)がヤバイことになってる。
この本が凄いのは、同時代性とか一切無視して江戸時代に書かれた『北肥戦誌』を
元寇の史料として多用していること。
中でも圧巻は、「てつはう」について大胆な新説を展開している箇所。

蒙古襲来 P57
「『北肥戦誌』という本によると、「てつはう」の威力はすざましく、その音天地
に響くだけでなく、あたるところのものは木っ端微塵となり、味方はこれのため
討たれるもの数知れず、おおいに怖じ恐れて、みな其処かしこに逃げ竄れ、
「大将ノ下知ヲモ不相用、更ニ戦ハントモセザリケリ」といった具合であった」

新井孝重が根拠としている『北肥戦誌』の記述をもう少し詳しく読むと・・・

北肥戦誌
「蒙古豫ねて日本の用心をや量りけん。件の石築地に猶二三丈が程高く、己が船に
勢楼を切組み置き、是を俄に組み立てて、日本勢の陣所を遥か目下に見なし、其頃
曾てなかりける佛郎機を放し掛けしかば、其音天地に響き、中る所微塵となり、
味方是が為に討たるる事数を知らず」

元軍は元寇で佛郎機(フランキ)を使用していた!!!

そもそも『北肥戦誌』の記述だと、武士が蒙古に連戦連勝しているのだが、その点は見事に
スルーされているし・・・
まさに戦後のトンデモ元寇研究の集大成だな。

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 04:18:43
島国攻め落とすのは大変なのよ

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 09:48:44
>>175
すいません、「矢の均一性」ってどういう意味ですか?
鏃から筈までのバランスのことですか?

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 15:25:21
>>181
島国のイングランドは、フランスの一地方の豪族に過ぎないノルマンディー公によって、攻め落とされてるよ

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 15:31:20
>>183
ドーバー海峡は最狭部で34km
日本海は?と言ってみたくなった

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 16:05:24
>>184
ノルマンディー公はドーバー海峡の最狭部を渡ったわけではないから。
ディーブ河口を出発してサン=ヴァレリーを経由し、イングランドのぺヴェンシーに上陸。
距離的には、文永の役の元軍や、弘安の役の東路軍と大して違わない。

それに、島国イングランドは北海を遥か隔てた半島デンマークにも征服されてる。

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 16:18:14
では月並みだが気象条件はどうか

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 16:21:18
>>186
その点では、はっきりと元軍の方が有利

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 16:39:30
そこいらを説明願いたい

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 17:10:02
>>188
ノルマンディー公がディーブ河口に艦隊を集結させたのは8月上旬。
ところが悪天候のため出港することが出来ず、9月11日には一度渡航を試みたものの、
失敗してサン=ヴァレリーに漂着。
そこから延々と天候回復を待って、ようやくイングランド上陸を果たしたのが9月28日。

一方の元軍は文永の役で、10月3日に合浦を出港し、10月5日に対馬、10月14日に壱岐と
順調に船を進めた上で、10月20日には博多上陸を果たしている。
弘安の役の東路軍は、5月3日に合浦を出港し、5月21日に対馬と壱岐を襲撃した後、
6月6日に博多湾到着。

あきらかに、ノルマンディー公の方が気象条件で苦労しているだろ。

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 17:41:46
>>182
矢の重量や重心位置、規格などが一定であるということね

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 20:56:14
歴史が捏造されているのは事実です
事実を伝えても注目されないが、嘘を言えば注目されるからね
歴史家が犯罪者という共通認識でいいのでは

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 02:27:16
和弓のスペックが上回っていたのは、蒙古弓は半弓なのに対し
和弓は長大だったからではないでしょうか。
モンゴルの矢は規格をバラバラに作っていたのですか?

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 09:03:27
>>189
なるほど面白いね
ありがとう

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 21:48:38
日本の当時の文献は兵力数に誇張がありすぎるから注意が必要だ
元冦の2度の侵攻の実兵力はいずれも高麗から2万程度の兵力のみ
しかもモンゴルの本隊はほとんどいないし、騎兵も皆無
2度目の南宋からの江南軍はたいした武装をしていない移民目的の旧南宋の老兵
最良どころはみんな当時元本土で起きていた大規模な反乱鎮圧に投入されている

鎌倉幕府がかつて平泉鎮圧に20万の兵力を送ったというが
20万の軍が行軍したら先頭は現在の東京―埼玉あたりで最後尾はまだ鎌倉を出て
いないことになる
また室町末期に京都に武士集団が現れた時、ある公家がこんな大軍見た事ないと
書き記したが、その時の実際の兵力はわずか4000である

195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/22(日) 09:49:05
>>194
現在の自衛隊の総兵力は24万人だが、大半の日本人は4000なんて大軍見た事ないな

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/25(水) 00:04:05
札幌では制服見飽きたよ

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/25(水) 14:54:34
>>183
ノルマンディー公がイングランドに上陸した時、イングランド軍は北方に
上陸してきたノルウェー軍と戦っていて留守だったんだが。

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 03:42:16
運良くモンゴル追い出せたね

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 16:08:52
>>198
だから運じゃなくて、モンゴルより強かったから勝利した。それだけ。

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 10:24:16
>>199
笑える妄想だね

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 15:13:19
普通に日本が圧倒してて勝ってるからな
台風とか大して関係なかったし

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 02:47:32
世界最強なの?

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 13:04:08
>>202
当然。
寡兵の鎌倉武士団がオープンスペースでモンゴル軍と戦い、大宰府に指1本触れさせずに勝利。
圧倒的な強さじゃないか。

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 19:16:04
>>203
文永の役では蒙古33,000に対し日本5,000。
それだけの兵力差でたった1日で蒙古逃げ帰る。
撤退中に荒波に遭遇して更に惨めな姿に。
残された連中、皆殺し。
蒙古の戦術、鎌倉武士軍に通用せず。

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/06(日) 17:00:33
それにしては遺骨も出てこんし、捕獲武器もほとんど皆無
大戦果を挙げたと言う記述は武功を認めてほしい日本側の御家人のみの不思議


206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/06(日) 17:58:26
>>205
大戦果を挙げたという記述は、元や高麗の文献にも書いてあるから。

文永の役
高麗史表「十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。
壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人」

弘安の役
元史日本伝「七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、そのために
虜去せらる。九日、八角島(博多)に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、
新附軍は唐人たりといい、殺さずしてこれを奴とす。・・・十万の衆、還るを
得たる者三人のみ」

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/06(日) 22:15:31
日本の武士が行儀良く名乗ってる間に蒙古が集団攻撃してきて
結構苦労したって学校の先生に習ったんだが

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/07(月) 15:06:56
>>207
元寇について学校の先生に習うことなんて、基本的に全部嘘だから。

武士が元寇でどのように戦ったかについて、実際に戦闘に参加した武士自身が監修した
「蒙古襲来絵詞」に優る史料は存在しない。
その「蒙古襲来絵詞」の中では、武士は蒙古に名乗ったりせずに集団で戦っているし、
対する蒙古は多くの兵が負傷して敗走している。

つまり、「蒙古襲来絵詞」は「武士の集団戦法に苦戦する蒙古」を描いた絵巻なんだよ。

それなのに、戦後の歴史教育は長年に渡り、集団で戦う武士や敗走する蒙古をカットし、
一部分だけを切り抜いて、「蒙古の集団戦法に苦戦する武士」などというまったく正反対の
絵として教科書などに載せていた。
確信犯で子供に嘘を教え続けていたわけ。

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 01:11:00
ようは鎌倉武士団が強すぎて
かなりの数の首級を上げてしまい恩賞の分配の当てが全くなかったってことだな

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 11:30:32
いるぼんまんせー

しゃおりーべんくいづ

妄想大爆発

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 15:21:23
>>205
元寇で日本軍が大戦果を挙げたという中国側の文献ならこんなのもあるよ。

鉄函心史
「辛巳(1281)六月半ば、元賊、四明(寧波)より海に下り大船七千艘、
七月半ばに倭国白骨山に抵り、土城を築き兵を駐し塁に対す。晦日(7月30日)
大風雨と作り雹の大なること拳の如く。船は大浪に掀翻し沈壊し、
韃(モンゴル)軍の半ばは海に没す。船は僅かに四百余隻回り、二十万人は
白骨山上に在りて船の渡帰する無く、倭人に尽く剿る」

遺体の処理のついては、日本側の文献によると、元兵を多く殺しすぎて面倒になり、
魚の餌にしたらしい。

八幡ノ蒙古記
「異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ」

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 22:51:44
なんか世界最強とか言ってる時点でうそ臭く感じる

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/14(月) 09:00:12
>>212
まあ、世界最強でないにしても、いわゆる元寇は対馬、壱岐以外は戦闘でも鎌倉武士軍が全て勝利してるよ。


214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/14(月) 16:12:15
総合判定:日本弱かった派の根拠はお笑い。

学校の先生にそう教えられたから。
 (日本弱かった派の脳内は、チイチイパッパのレベル。批判精神皆無。)

元軍は、博多あたりを焼き討ちしたから。
 (日本弱かった派は、個々の戦闘の優勢劣勢のような枝葉末節しか注目できず、戦略目標無視の単細胞)

文永の役の後、防備を固めたのは日本が弱いから。
 (後の弘安の役を的確に予見する能力こそ、強い証。日本弱かった派は、目の前の相手に子供のケンカすることしかできないらしい。)

日本の軍制は劣っていた。
 (日本弱かった派は、日本の指揮系統・装備・錬度・戦術などにケチをつけるが、根拠なし、又は揚げ足取りレベル。)

元軍は、渡海するのが大変だった。
 (日本弱かった派は、元軍が圧倒的に不利だったと言いたいらしい。4世紀ころからの軍団の渡海の歴史を知らず、無知をさらすばかり。
  今日の定期航路のように随時渡海できるわけではない。しかし、それと軍団の渡海との区別がつかない馬鹿っぷり。)

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/17(木) 01:49:37
勝ったわりには集団戦法を導入したのは解せないな
そんなに元を打ち破ったと誇るならずっと近代まで一騎打ちで通すのが筋だろ
結局、本当は戦闘で負けて集団戦法を導入したのが本当だろう
アイルランドにかつてアングロ・ノルマンが侵攻した時とケースが酷似している
当時はアイルランドは一騎打ち戦法を採っていた
アングロ・ノルマンは当時、欧州で最強の武装に優れた戦術と集団戦法を採用し
ていた
元冦との違いは暴風雨がなかったこと
結局、アイルランドはアングロ・ノルマンに歯が立たず、席巻された
それに高麗やベトナムの方が本当の元の本軍に何度も攻撃されているな

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/17(木) 01:55:38
>>215
日本は元々一騎打ちなんてしてねーし
源平時代から戦術戦もあったし

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/17(木) 08:44:40
>>215
鎌倉武士軍がとった戦術は騎馬武者による集団戦術。
名乗りを上げての一騎打ちなんかで挑んでない。

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 12:49:39
戦後の日本史研究者が元寇について言っていることなんか全部捏造なのさ。

当時の史書に書かれた文永の役↓

【鎌倉年代記裏書】
『十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北』

江戸時代の史書に書かれた文永の役↓

頼山陽【日本外史】
『十一年(1274)十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。地頭宗助国、これに死す。
転じて壱岐に至る。守護代平景高、これに死す。事六波羅に報ず。鎮西の諸将をして、
赴き拒がしむ。少弐景資力戦し、射て慮の将劉復亨を殪す。慮兵乱れ奔る。』

戦前の史書に書かれた文永の役↓

白鳥倉吉【国史】
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。文永末年の
ことでしたので、これを文永の役といいます。』

戦後、GHQ占領下の教科書に書かれた文永の役↓

第七期国定教科書【くにのあゆみ】
『すると忽必烈は、文永十一年(西暦一二七四年)十月、九百せきあまりの船に、およそ四万の
兵を乗せて、博多湾に攻めこませました。武士たちは、勇ましく戦ひましたが、敵が上陸してきたため、
大そうなんぎをしました。ところが、大風がおこつて、敵の船をくつがえしたので、これを退けることが
できました。』

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 14:16:26
鎌倉武士団がボロクソだったなら台風が来ても大丈夫なように陸地に設営されてるだろ
戦争でもっとも危険度が高いミッションは上陸戦だからそれを何度も繰り返す事なんかしない
一回上陸したらそのまま敗北でもない限り本拠をそこに置く

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 14:57:09
>>219
もちろん元軍が陸上での戦闘に負けない限り、乗船して暴風雨に遭遇する様な状況は発生しない。
実は、文永の役で元軍が船に戻った理由は、謎でも何でもないんだよね。
高麗の文献に、劣勢に追い込まれた元軍が日本から撤退するために乗船し、帰路で暴風雨に遭遇したと、
はっきり書いてあるのだから。

高麗史金方慶伝
『忽敦、曰く「兵法に「小敵の堅は、大敵の檎なり」と。疲乏の兵を策して、日ごとに滋すの衆に敵するは、
完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。〔劉〕復亨、流矢に中る。先に舟に登り、遂に兵を引いて還る。
会々、夜、大いに風雨す。』

忽敦は元軍の総司令官。
彼は元軍を「小敵」に、日本軍を「大敵」に例えて、戦況が絶望的で撤退以外の選択肢がないと言っている。
流れ矢に当たって負傷し、真っ先に乗船したと書かれている劉復亨は、元軍の副司令官。
日本側の文献には、少弐景資の部隊との戦闘中に狙撃されて落馬したと書かれている。
元軍が風雨に遭遇したのは、「遂に兵を引いて還る」の後の出来事だよね。

これだけ明快な記述がありながら、戦後の元寇研究はインチキだから、元軍が負けた事を認めないんだよ。

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 16:00:28
日本の地形元軍にとって相性が悪すぎるよ
率いたのもたいした将軍じゃなかったし

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 16:17:41
>>221
文永の役の戦場となった福岡平野なんて、元軍にとっては理想の環境じゃん。

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 19:05:29
>>222
鎌倉武士の戦術もまた集団による騎兵戦術です。
学校の教科書にあるような名乗りを上げて一騎で突撃したなんてことはありません。
鎌倉武士の騎兵戦術が元軍を上回りました。

それと日本の当時の鎧は非常に厚く頑丈で元軍の弓ではなかなか鎧を貫けませんでした。
全身に矢を被い針鼠のようになっても鎌倉武士軍は元軍に斬り込んで行きました。

もう一つついでに。
鎌倉武士軍の日本刀の切味の凄さは元軍の武器の比ではなかった。
元軍の兜ごと真っ二つにしたり、また元軍の刀や楯さえ切り裂く威力で散々に蹴散らされたのは元軍です。

文永の役のとき元軍3万を超えるのに鎌倉武士軍わずかに5千。鎌倉武士軍は戦術も兵器の質でも元に勝りました。
それが勝因です。


224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 19:18:49
鎌倉武士の騎兵って・・・・・
日本には明治になるまで騎兵なんかいないし
蹄鉄、ハミ、去勢、馬具、乗り方に至るまで日本に騎兵が存在した形跡は全く無
し、和製馬じゃ動きがトロいし、その上ギャロップも出来ん
『馬の世界史』を嫁

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 19:31:56
日本弓の素晴らしさをなめすぎ

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 20:40:56
モンゴルの合成弓より数段劣るがな

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 21:42:01
「ところが、元軍の矢は二町(220メートルぐらい)ほども射程があるので、
(日本側の矢は有効射程100メートル以内とみてよい)、味方にたちまち二人
手負いが出た。景隆らは城(といっても簡単な館だが)にたてこもって防戦
したが、衆寡敵すべくもなくついに城の内で自害した」

「有効射程」が「射程」より短いのなんて当たり前じゃん・・・

更にこの「日本側の矢は有効射程100メートル以内」という話も、まったくの根拠不明。
文永の役で、武士は一町(110メートルぐらい)の距離から正確に元兵を狙撃して殺し、
大笑いしたという記録だってあるのだ。

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 22:03:42
モンゴルの弓が極東の土人の弓より射程が短かったらユーラシア制覇など出来る
はずがない
もし射程の短い弓なら大多数の騎馬弓兵によるアウトレンジ集中射という戦術が
使えないどころか射程は短いが貫通力のある欧州や中国の弩に殲滅されるだろう
それに日本に来襲したのはほとんど高麗兵
元軍の主力は文永の役時では南宋攻略に、弘安の役時には親族の反乱鎮圧に投入
されている

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 22:08:32
18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/03/01(木) 14:02:11
>>17
歩兵ばかりだったのは8000人の高麗部隊。
その他の蒙漢軍が2万5000なんだから、どう考えてもそっちの方が主力だろ。
日本側の文献には、文永の役の元軍の特徴として「馬によく乗る」って書いて
あるのに、どこから「歩兵ばかり」なんて話が出て来るんだよ。


230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 01:18:58
>>224
>日本には明治になるまで騎兵なんかいないし
残念、いなかったのは騎兵隊であって騎兵ではない。

>蹄鉄、ハミ、去勢、馬具、乗り方
例えば、ローマ末期になるまで西欧では蹄鉄はなかったがアレクサンドロスや
ハンニバル、スキピオやカエサルが騎兵隊を運用してたことを疑う奴はいまい。
馬の扱いが原始的であったことと騎兵・騎兵隊の有無は直接関係しない。

>和製馬じゃ動きがトロいし
生憎だが、日本人に畜産の知識がなかったせいで、よい馬ほど戦場に優先的に
送られて子孫を残せなかった結果、時代を下れば下るほど馬格は貧弱に、
つまり時代を遡れば遡るほど馬格が立派になるという話がな。

>その上ギャロップも出来ん
中世期の全身に鉄の装甲を纏った戦士を乗せた馬は、ギャロップどころか
並足がせいぜいって見解は洋の東西を問わないんだ。

実際に大鎧を着て良馬に跨った鎌倉騎士が実数数百人だったとしても、
それが十分な訓練を積んでいて士気旺盛であったならば、歩兵数千どころか、
あるいは万にも達する力を発揮しただろう。
別に大げさに言ってるわけじゃなくて、中世の重装騎兵ってのはこういう存在。
歩兵の何倍何十倍の値段する装備と十分な鍛錬をした死を恐れない封建騎兵は、
それだけのコストに見合った働きをした。

>>228
>もし射程の短い弓なら大多数の騎馬弓兵によるアウトレンジ集中射という戦術が
>使えないどころか射程は短いが貫通力のある欧州や中国の弩に殲滅されるだろう
生憎だがそのとおり。冒頓単于のいない匈奴は武帝の軍によって追い散らされ、
アッチラ死後のフン族は惰弱なギリシア人の傭兵に成り下がった。
モンゴルがあれだけ領土を広げたのは、つまりのところチンギスハーンとその子孫が
優秀な指導者だったからということが大きい。

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 12:57:03
フン族がギリシャ人の傭兵になり下がった?
基本的西洋史ぐらい覚えとけよ
まあ難民だから仕方なしか

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 13:03:49
ギャロップできない騎兵はいない
日本では騎馬突撃出来るようなハミや鐙、鞍は明治以前に開発されたことは無い
和製馬は農耕や駄馬に適しているが、騎兵用には全く不向き
とにかく馬に関する歴史書を嫁

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 13:26:44
>>232
実際に文永の役で騎兵突撃をおこない、元軍を蹴散らしてるじゃん

http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/7f/00/sa341gazelle/folder/526905/img_526905_6727469_1?2006-06-06%2018:06:53

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 13:52:14
>>232
春日権現霊験記繪巻
http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y04/html/n02/p024.html

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 18:11:39
騎兵突撃を一度も見たこともなく、和製馬以外を目にしたことない当時の日本人
の記述じゃ説得力まるで無し

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 19:41:31
>>235
当時の日本人が、騎兵突撃を一度も見たこともなければ、その様子を描くわけ無いだろ

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 22:31:07
>>232
>ギャロップできない騎兵はいない
近代の騎兵ならね。銃弾の飛び交わない戦場では、全身鎧があればそんなにスピードはいらんのだ。

>日本では騎馬突撃出来るようなハミや鐙、鞍は明治以前に開発されたことは無い
マケドニア騎兵は鐙も鞍もなかったけど騎馬突撃したね。
ハミが何で騎馬突撃に必要なのかはまるで理解不能。
日本に鐙は古墳時代からありますが。

>和製馬は農耕や駄馬に適しているが、騎兵用には全く不向き
不向きなのと可能不可能なのかはまったく別。

>とにかく馬に関する歴史書を嫁
よっぽど変な本を読んだかよっぽど変な読み方をしたんだろうね。
「騎士は転ぶと一人では起き上がれなかった」って話信じてるクチ?

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 03:57:02
高麗史にある軍議の記述。文永の役の博多の戦闘後。
わずか1日で元軍戦意喪失。

元軍司令官「蒙人は戦に慣れてるがこれ以上は何も得られない」

高麗軍将軍「我が兵少なしといえども既に敵地に入っている。船を焼き背水の陣でまた決戦したい」

元軍司令官「疲れた少ない兵では大軍の餌にしかならない。撤退するしかない」



239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 00:07:33
世界史板の騎馬否定厨はここにもいたか

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 02:32:01
ここで何言っても説得力無いから何も変わらないよ
両者に知識が伴ってないと判断の下しようが無い

241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 03:00:05
騎馬否定厨は読んだ本に正確に何と書いてあったのか、UPするべき
単にこいつに読解力がないだけかもしれん
ハミも鐙も鞍も全部日本に昔からあるし、遺品だって多く残ってる
あるとあらゆる史料が日本に騎馬がいたことを証明しているぞ

242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 23:18:47
こんなとこでやらないで世界史板行ったら?

243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/24(木) 00:18:07
>>240
判断も糞もないだろう
否定厨は厨そのもの

244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/24(木) 03:30:08
馬の話じゃなくて、このスレ全体での話

245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/24(木) 14:47:07
このスレに書き込んでる奴は、普通に他の歴史板も掛け持ちしてるだろ

246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/24(木) 20:35:36
日本史の話題か世界史の話題か微妙だから難民板に立てたんじゃないの。
まあ世界史板でも山野野衾とかいるし普通にレス付くと思うが。

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/26(土) 00:34:36
鎌倉時代の日本の鎧が頑丈なことは有名だよ
現代戦車の主砲から発射される劣化ウラン弾の直撃を受けても
主人を無傷で守るって言われてる

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/26(土) 02:15:33
↑それはない
多分当時のメイル・ホウバークより
矢や槍など刺突系への防御力は高いとは思うが

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/26(土) 12:27:43
次世代宇宙服として日本の鎧が注目されてるらしいね

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/26(土) 18:49:29
>>249
そんな話は聞いた事が無い。

251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/26(土) 22:24:16
豪快に釣られたな

252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 15:26:21
やっぱり元寇時、ほとんどモンゴル本隊はいなかった!
・文永の役
元軍の船舶 900隻
元軍総兵力 25000
内、高麗兵 12700
内、モンゴル兵 30
他、宋人等
・弘安の役
元軍の船舶 4400隻
元軍総兵力 50000
内、高麗兵 25000
内、モンゴル兵 150
他、宋人等

松本一夫氏HP「歴史へのいざない」
日本史
元寇失敗の背景より抜粋

253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 15:59:11
鎌倉武士よりベトナムの方が数段すごい
931年ズオン・ディエン・ゲ、南漢(五代十国時代の一国)の侵攻軍を撃破
939年ゴ・クエン、バクダン河で南漢侵攻軍を撃破し、呉朝樹立
981年レ・ホアン、バクダン河で侵攻してきた宋の水軍を全滅させる
次いで陸戦においてもチ・ランの戦いで宋軍を撃破
1076年リ・トン・キェト、宋侵攻軍10万をカウ河と紅河の戦いで撃破
1257年第1次元寇
チャン・カィン・ズ、元軍を撃破
元軍撤退
1283年第2次元寇(元軍司令官トアド)元軍総兵力50万
元軍、タンロンで住民を虐殺
チャン・ニャット・ズァット、元軍を撃破、元軍司令官トアド戦死、元軍5万を捕虜に
〈日本の元寇では元軍の司令官の名もわからず、元の兵を一人も捕虜に出来なか
ったことに注目〉
1287-88年第3次元寇(元軍司令官ウマル)元軍30万が海陸から侵攻
ヴァンドルの戦いで元水軍を撃滅
バクダン河の戦いで元軍壊滅し、元軍司令官ウマルを捕虜にする
1409年将、院景真、明の沐晟率いる5万を撃破するが、武功を恐れた王に暗殺さ
れる
その後、王は明に敗れる
1424年レ・ロイ、明からゲアンを奪回
1426年レ・ロイ、明の王通の大軍15万を撃破し、撃退する

254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 16:03:20
>>252
史料に書いてある数字は、あくまでも蒙漢軍2万5000が本隊で高麗軍は8000。
何の根拠も無い適当な数字を並べている時点で、そいつの書いてることは信頼性皆無。
参考文献には、「有効射程」と「射程」を比較してあからさまな印象操作をおこなった
黒田俊雄の『日本の歴史8 蒙古襲来』が並んでいるし・・・

255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 16:15:32
>>253
1257年第1次元寇は撃退では無いぞ。
僅か3000のモンゴル軍に首都を占領され、その後屈辱的な条件を飲んで朝貢を行なっている。

ベトナムが何度も中国の侵略を受けたのは、日本よりも弱いから。
日本でボロ負けした元軍は、より勝ち易い相手としてベトナムを選んだんだよ。

明も日本侵略を考えたことがあったが、日本側が「備えは万全だから、攻めてきても平気」
と書状を送ったら、腰砕けになって結局は諦めた。
明がベトナムに攻め込んだのは、その後。

256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 16:23:23
>>254
ちゃんとページ見たか
参考文献の量は半端じゃないと思うが

>>255
結局、日本は敵の司令官を殺せなかったし、捕虜にも出来なかったのは事実
大勝と言うわりには敵の捕虜が一人もいないと言うのはもっと不思議なことだ

257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 16:27:07
ヴェトナムの場合は中国と陸続きだから侵寇は海陸双方から受けやすい
相手を引き込み内線の有利に戦術の重きを置くのは妥当

258 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 16:44:46
>>256
元史には弘安の役で元軍10万の内、2〜3万が日本の捕虜にり、残りは全員殺されたと書いてあるぞ。
大勝以外の何物でもないじゃん。

259 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 16:48:17
>>258
それは松本氏に言ってくれよ
松本氏はそれなりにいろんな文献で調べてるし

260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 16:52:18
>>255
だったらなんで元が第2次、第3次進攻する必要あるんだ?
1回目で事が済んだことじゃないの

261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 16:53:50
>>259
だから、そいつの書いていることは信頼性皆無だと言ってるだろ。
何ならそのページに書いてあることが、どれだけ適当か順番に列記してもいいぞ。

262 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 17:02:51
>>260
基本的には、第1次侵攻でベトナムが降伏して元の支配を受け入れたため、事は済んでたんだよ。
ただ、その後元が調子に乗ってどんどん支配を過酷なものにしたため、ベトナムが反乱を起こし、
第2次、第3次進攻する必要が生じた。

263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 17:04:33
向こうの掲示板に書いた方が早いだろ

264 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 17:12:27
>>262
弱い奴の反乱ならそんな30万、50万の大軍送らんでいいだろう
それに元軍の司令官が戦死したり捕虜になったりして大量の捕虜が生じたって書
いてあるから尋常じゃなかったんたじゃねぇのか

265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 17:27:46
>>264
30万、50万ってのは占領軍だからな。
現在行なわれているイラク戦争でも、イラク軍は滅茶苦茶弱くてバグダットも
あっさりと陥落したけど、アメリカ軍はその後の占領統治にてこずり、大幅に
兵力増強しても、戦死者が増え続けてるだろ。

266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 19:59:38
>>265
なんのこっちゃw
すげぇ笑えた
ふつー、逆だろ
占領軍なら逆に減らすだろ
それにいくら歴史難民とはいえ当時の元の状況の概略ぐらい知ってるよ
親族同士の内紛が激しくなって行くのに不定期の大軍の駐留なんてありえないよ
そこまで長期だとまずモンゴルの馬がもたないよ

267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 20:03:15
いや、攻撃は兵力絞れるけど占領には莫大な兵力が必要
要するに点と面の違い

268 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 20:24:12
おいおいそれじゃ
その論法で行くと中国本土に1000万、高麗に100万の駐留軍置いてジャワや日本
への侵攻軍を別に用意して
最大の強敵でほとんど毎年のように戦ってるチャガタイのハイドゥに対しては精
鋭軍を常に準備しとかなければならないんよ
ムリムリ無理だよそんなの

269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 21:17:16
>>268
中国本土の占領には、ほぼそっくり手に入った旧江南軍を使った。
朝鮮半島に関しては、フビライに恭順の意を示した高麗王朝を温存して統治させた。

270 :269:2007/05/28(月) 21:20:10
間違えた
旧江南軍じゃなくて旧南宋軍ね

271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/30(水) 03:14:15
近代以前の軍隊の数字ほどあてにならないものは存在しない、とか言ったら駄目?

272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/30(水) 06:17:55
そんなに最強だと思うなら松本氏の掲示板に直接論戦挑んでこいよ
こんなとこで雑魚相手にしてても何も変わらないぞ

273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/30(水) 06:18:56
あ、でもこの人専門家じゃないのか

274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/30(水) 07:51:29
松本氏の掲示板に直接書き込むことも考えてるよ
正直、個人サイトに乗り込むのは気が引けるんだけど

275 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/07(木) 10:33:40
>>253
1283年の第2次元寇で、トアド率いる元軍が50万ってのは、大越側の文献に書かれている数字。
しかも、実数ではなく噂の数字として書かれている。
元史では、トアドの率いていた兵数は、最大限に見積もっても2万5千にしかならない。

276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 10:25:34
じゃあ日本に来襲した元軍はさらに少ないな
どう考えても海路より陸路の方が兵力を投入しやすいし、ヴェトナムは日本と違
って元の欲する特産品があったからな

277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 13:05:52
>>276
日本襲来の元軍の総司令官も高麗人
わざわざモンゴル人が指揮する必要性がないからね

278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 13:06:39
>>276
残念ながら、日本侵攻の際の元軍の兵力は、最初から元側の史料をもとにしているから
あと、日本には元が欲する黄金があったよ

279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 13:25:21
>>277
嘘を書いちゃダメね
文永の役の元軍の総司令官は忽敦というモンゴル人
弘安の役の元軍の総司令官の阿剌罕や阿塔海もモンゴル人
高麗人の将軍は、その下で少数の高麗部隊を指揮していただけ

280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 19:43:20
鎌倉時代の日本にはそんなに金なんかないよ
いいかげんな事書くなよ
東方見聞録を信じているのか?

281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 20:56:56
>>280
実際に有るか無いかは問題じゃないでしょ
むしろ当時のモンゴル人が東方見聞録に書いてあるような事を信じていた可能性は十分ある訳だし

282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/09(土) 01:04:46
>>280
平泉の中尊寺金色堂見たことないですか。?
藤原頼長の日記にも奥州藤原氏から砂金がたんまり届けられたことなど書いてある。
後は後三年の役の発端は藤原サネヒラが一族の長老吉彦秀武が砂金を持参してきたのに碁に夢中になって気づかず秀武が馬鹿にされたと怒ったこと。
奥州藤原氏は遺跡から象牙なんかも出てきたり随分と海外と交易してたからジパングの話はこの辺から出てきたのでは?

283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/09(土) 02:41:12
東方見聞録のチパングの記事は以前読んだけど
元軍に首都を占領されたとか人肉食の習慣とか
個人的にはどうコメントしていいか分からん。

284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/09(土) 04:53:50
>>280
元禄期まで日本は世界有数の金産出国

>>283
マルコ・ポーロが又聞きとかでしか知らない地域のことは、当時のヨーロッパ人の世界観が
ちゃんとと反映されたおかげで、犬頭人とかのファンタジーがポンポン出てくるからね。
まぁフビライや元の人間が東方見聞録を読み聞きしたわきゃないからどうでもいいんだが。

285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/09(土) 07:30:22
>>280
宋史日本伝
「東の奥洲は黄金を産し、西の別島は白銀を出だし、以て貢賦となす」

286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/10(日) 16:41:04
このスレの印象だと、片方の立場にしか詳しい人いないね
難民板だから仕方ないけど

287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 00:53:06
『トンデモ日本史の真相』を見ていたら鎌倉武士ではないが、武田騎馬軍団の話
で、以下の理由で日本においては騎馬軍団の突撃はなかったとしている
・日本での騎馬兵は騎馬弓兵で突撃はしなかった
・騎馬兵は実際、戦う時は下馬して組み撃つのが常である
・日本在来の馬は体高110-140cmのポニーである
・日本には去勢技術がなく、去勢しない馬で戦闘に入ると武者は振り落とされ、
首を取られるのが落ちである

やっぱり日本には突撃出来るような騎兵なぞ存在し得なかったんだ、納得、納得

288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 02:35:15
全力で釣られてみよう。

>>287
>・日本での騎馬兵は騎馬弓兵で突撃はしなかった
室町期には騎射より槍などでの白兵戦がメインになってたはずだが…。
第一上でもさんざ鎌倉武士の騎馬突撃について言及されてるし、飛び道具を
放ちながらの突撃は歩兵騎兵問わずわりとよくある戦術。

>・騎馬兵は実際、戦う時は下馬して組み撃つのが常である
根拠が分からんことにはどうにも。重装騎兵同士の戦いの最終局面ではそうだろうとしか。

>・日本在来の馬は体高110-140cmのポニーである
蒙古馬もそんくらいだよな。

>・日本には去勢技術がなく、去勢しない馬で戦闘に入ると武者は振り落とされ、
ストラボンは去勢技術を、スキタイ人やサルマチア人の変わった風習と書いているが。

まぁ武田騎馬軍団は無いだろうがな。

289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 10:00:51
じゃ、と学会に抗議すれば
HPもあるし

290 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 11:14:35
>>1
よく釣れてますね。

291 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 11:19:39

━━━━━━糞スレ激しく終了━━━━━━━━

292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 11:24:54
糸冬


293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 12:28:31
平安時代に攻めてきたらやばかったな

294 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 16:32:38
>>293
平安時代だと、894年に朝鮮半島から新羅の海賊が攻めて来たことがあるけど、
これは対馬守・文室善友がクロスボウ部隊を率いて撃退している。
あと、1019年には女真族による刀伊の入寇があったけど、こちらは藤原隆家が
騎兵部隊を率いて撃退。

295 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 19:23:11
>>294
それは規模が違うんじゃないか

296 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 22:35:55
>>289
って、と学会の本かよ。いつからあそこは啓蒙本の出版処になったんだ。
…とその前にちょっと内容の解説を調べてみたら、普通にトンデモ学説の紹介本みたい。
武田騎馬軍団の項の執筆者が暴走して馬脚を現したか、それとも>>287がデタラメ書いたのか?

297 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/12(火) 09:25:45
糸冬 了..._〆(゚∀゚ )






        ( ゚д゚)、ペッ 糞スレ立てやがって

298 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/12(火) 15:15:37
糸冬

299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/12(火) 18:59:31
287はデタラメ鈴木真哉

300 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/12(火) 21:13:45



301 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/12(火) 23:37:57
オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズの『モンゴル軍』には、
「ポニー(小型の馬)に乗ったモンゴル人は単騎なら9日間に600マイル(約965q)を走破できた。」
なんて書いてあるね。
中世の軍馬としてはポニー最強だな。

302 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/13(水) 01:04:07
馬って小型種のほうがスタミナあるんだな。

303 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/13(水) 10:06:20
>単騎なら

替え馬を2、3頭連れて次々と乗り換えるから早いんじゃなかったっけ?
うろ覚えだが

>軍馬としては

チャージャーとしてならやはり西洋でいう「軍馬」の方でしょう
モンゴルポニーは小回りがきくのが強み

304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/13(水) 11:04:46
オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズの『グスタヴ・アドルフの騎兵』には、
三十年戦争の抜刀突撃で有名なスウェーデン軍の軍馬について、
「1622年と1623年の装備目録によれば、スウェーデン騎兵部隊の馬の平均身長は、幹部クラスの馬で
14ハンド(1m43p)、騎兵用はわずか11から13ハンド(1m12p〜1m33p)だった。胸甲騎兵の馬でさえ、
「鞍をつけて14ハンド」にすぎなかった。」
なんて書いてあるよ。

305 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/14(木) 19:37:44
それはスウェーデン産の馬ですね。
スウェーデン軍の中で激しい突撃で知られたハッカペリッタ騎兵は
一般的に15−17ハンドのフィンランド馬に乗ってた。
ブライテンフェルトの戦いの後にドイツ中部に進出してからは
まともな軍馬が手に入るようになってあまり他の軍の騎兵と
変わらなくなったとか。

306 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 21:29:31
知らなかったけど人力鉄道の歴史サイトがあった。
http://www.kk-net.com/~tabuchi/JINSHA.htm


307 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/17(日) 08:50:39
>>305
スウェーデン軍はポニーで戦っていた頃の方が強かったけどね

308 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/23(土) 02:25:35
現代米軍が本気で攻めてきたって余裕で勝てる日本だぞ
いつの時代でも日本が敗北することなどありえない

309 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/23(土) 07:44:41
幾らなんでもそれはない

310 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 12:58:15
>>307
それはどうかな。
ポーランドで戦ってた頃もフサールを騎兵戦で圧倒していたとは聞かないし
「グスタフ・アドルフの騎兵」でも「スウェーデン騎兵の成功の秘訣は、「特命」
マスケット銃兵による近距離からの火力援護にあった。それがなかったなら、
スウェーデン軍は、装備と馬、いずれにおいても勝る皇帝軍の胸甲騎兵に
あっさり壊滅させられていたことだろう」と書いてるけど。

311 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/03(火) 14:17:10
つー事は最初から最後までスウェーデンは弱かったって言いたいの?

312 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/06(金) 17:04:40
>>310
ポーランドって1648年のフメリニツキーの乱でコサックとタタールのポニー騎兵連合軍に圧倒された国だよな

313 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/12(木) 19:26:44
412 :名無しさん@一本勝ち:2007/05/18(金) 17:34:22 ID:R25ckwX90
現在の在来馬主の方の証言(要約すれば西洋馬に比べおとなしく素直で物事に動じない。はみなどいらない去勢も必要なかった等)とsporran氏の語る在来馬(もとから気が荒い上に去勢してなかったんだからさらに手に負えなかったはずだ)の姿が正反対なのが面白い

どちらも嘘をついているのではないと好意的に見た場合、思うにこういうことではないかと思う。
つまり在来馬全体がもとから気が荒いということではなくむしろ基本的にはおとなしくて物事に動じないおおらかな気性であってだからこそ軍馬用としては
そのなかで特に気性の荒い馬を選抜する必要があったと。
であれば「誰が主人か」だけを徹底的に叩き込めば躁馬に関しては細かい調教が不要馬具も凝ったものは不要というのも納得できるようにおもわれる。
とすれば日本の古文書で言うところの「あの馬は気性が荒くて云々」という描写で語られる馬も実は同時代の西洋馬の御しにくさと比較したらたかが知れてる程度で西洋馬よりはるかに聞き分けがよい馬だったのではないだろうか?

ただ明治維新後の軍馬に関しては早くから西洋馬との交配がなかば狂信的なほど性急に推奨されたということなので、この時期以降の記録に残る馬に関しては大幅に馬の気性も変わったのではないだろうか


413 :名無しさん@一本勝ち:2007/05/18(金) 17:39:39 ID:R25ckwX90
>西洋馬の御しにくさと
一応補足

西洋馬の世界での基準における「気性の荒い馬」の御しにくさと…

のほうが誤解がないかもしれない


414 :名無しさん@一本勝ち:2007/05/18(金) 20:41:33 ID:dsAlVweI0
>>406
>>412で武士の馬は制御が難しい根拠が無くなりましたが…

それはそうと騎士の馬のはみがH型なのはアラブの影響では?
日本の場合アラブの(遊牧民の)影響がほとんど無いらしいので
蹄鉄もないし帯も胸ではなく首の辺りにかけて
馬が重い荷物を運べなかったらしいです
もっぱら輸送は船と人力じゃないかな?駕籠なんて物もあるし


415 :名無しさん@一本勝ち:2007/05/18(金) 21:39:41 ID:waF5by5U0
なるほど。スポランさんも意外と思い込みにとらわれてるのね
417 :名無しさん@一本勝ち:2007/05/19(土) 00:30:45 ID:+gAFwguW0
西洋馬・・・去勢無し>>>>>>>>去勢済み

日本馬・・・>>>>>>去勢無し>>>>>>>去勢済み

てことですかね


314 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 08:23:40
っていうか日本に「はみ」が無かったなんて話は完全に嘘だから


315 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 07:34:21
1の意見には感服する。元軍が一日で撤退した理由とかどんな説よりも納得できる。世界一かは判らないけど・・
ただ、一つだけ疑問が、wikiに日本軍の弓の射程は文永の役の経験から改良して弘安の役で元軍より射程が長くなったとあるんだけど、そうなの?

316 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 03:12:59
はみがなかったではなくて無くてもいいよという話だとおもわれ

317 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 10:01:54
>>315
弓の射程は最初から日本の方が長かったよ。
出版されている元寇関連本には、日本の方が射程が長かったと書いてあるものもあれば、
元軍の方が射程が長かったと書いてあるものもあるけど、後者は基本的に>>165に書いて
ある「有効射程」と「射程」を比較するインチキ研究がベースだから。

wikiの弓の射程に関する部分は、吉川弘文館の「日本の時代史9 モンゴルの襲来」の中で、
杉山正明が書いてることに影響されてる感じがする。
杉山は1996年に出版された「モンゴル帝国の興亡」では、元軍の弓の方が射程が長かったって
書いていたんだけど、その後考えを改めて、2003年出版の「モンゴルの襲来」では、日本の
弓の方が射程が長かったって書いてるんだよ。
wikiの筆者は、中間を取って文永の役では元軍の方が長く、弘安の役では改良されて日本の
方が長くなったと考えた可能性はあるかも。
wikiの筆者本人に聞かないと真相はわからないけど・・・

兎に角、文永の役と弘安の役の間の短期間に、日本の弓が急速に改良されたなんて話はない。

318 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 10:27:55
日本の弓てのは面制圧じゃなくて狙撃型なのかな?
厨な質問で申し訳ないけど

319 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 23:23:55
>>317
サンキュー。そうだよね。倍以上の射程距離を持つ敵の弓矢を採用するならともかく、数年で元からあった弓を4倍の射程距離に伸ばせる訳がないもんね。

320 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/17(火) 07:34:14
>>318
ケース‐バイ‐ケースだよ。
文献には、雨の如く矢を降らせている場面もあれば、狙いを定めて狙撃している場面もある。

321 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 12:18:51
「元寇の際に武士が一騎打ち戦法で戦っていたなんてことはあり得ない」
こんなちょっと考えれば誰でも分かることを、日本史研究者の誰も気が付かなかったはずがない。
気が付いていても真実を正直に言うことがタブーなんだと匂う本がたまにある。

例えば中世合戦についての著書を何冊か出している近藤好和。
治承・寿永期までの戦闘を扱った『弓矢と刀剣 中世合戦の実像』吉川弘文館のP175。

「『平家物語』の弓射の類型表現からも、それが騎馬であれば、馬静止で矢を前方に射る騎射がイメージ
されるのである。仮に馬を馳せていたとしても、かかる表現の騎射は、『蒙古襲来絵詞』にみえるような
全軍が一団となって突進し、進行方向に矢を射る状態、いわば集団での追物射の状態をいうのであろう(図30)。」

この頁には図30として『蒙古襲来絵詞』の白石道泰率いる100余騎が突撃する場面が載せられている。
つまり、全ての元寇関連本で「一騎打ち戦法の武士が集団戦法の元軍に苦戦した」と書かれている中、
元寇以外の中世合戦を考察した本では、『蒙古襲来絵詞』が武士の集団戦法の史料として使われている・・・

更に、古代から治承・寿永期までと何故か元寇をとばして南北朝期を考察した『騎兵と歩兵の中世史』吉川弘文館の、
「中世前期戦闘考察の史料」の項目P8でも・・・

「中世前期の戦闘考察には、『今昔』などの説話物語集や『平家』などの軍記物語のほかに、有力な文献史料が
ないことは異論がないであろう。一方、絵画史料としては、『前九年』の他にも、『平治物語絵巻』や
『蒙古襲来絵詞』などがあり、合戦絵巻としてはむしろそれらのほうが有名で『前九年』はあまり注目されていない。」

『蒙古襲来絵詞』の名が挙がる一方で、元寇研究で武士の一騎打ち戦法の根拠とされている『八幡愚童訓』が、
中世前期の戦闘考察の史料としては見事にスルーされている・・・
八幡神の霊験を述べた神道書の『八幡愚童訓』と、実戦に参加した武士の実録である『蒙古襲来絵詞』を、
戦闘考察の史料として同列には扱えないということ自体は当たり前なんだけどさぁ、何でその当たり前のことが
肝心の元寇研究では無視されているんだよ?
元寇研究とそれ以外の中世合戦の研究では整合性が皆無じゃん。

嘘を嘘と知りつつ放置する日本史研究者たちって、腐りきった人間の集団だよな。

322 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/29(日) 21:41:54
>>311
ほぼ一ヶ月ぶりの亀レスになってしまったけど・・・

騎兵の不備を他の兵科との連携でカバーしてそれが成功したわけでしょう。
なんでスウェーデンが軍全体として弱かったとか極端な話になるのかわからない。

323 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/29(日) 21:42:40
>>312
1605年のキルホルムの戦いでは3倍の兵力のスウェーデン軍をフサールの突撃で壊走させ、
1629年のトシチャノの戦いではグスタフ・アドルフのスウェーデン軍をやはり騎兵突撃で破った国でもある。

というかポニーのチャージャーとしての能力についての話をしてたと思うんだけども
コサックやタタールがポーランドの騎兵軍と同じ戦術で戦ってたと思ってます?
タタールは大多数が弓矢で戦う軽騎兵で、敵を遠巻きにして矢を射ち、側面攻撃や奇襲、伏兵に長けていた。
ポーランド騎兵の突撃に真っ向からぶつかっていったりはしません。逃げながらパルティアン・ショットを続けて
軍馬の突進する勢いが衰えてきたところで旋回反転してまた攻撃したりする。
ザポロージェ・コサックは騎乗率はタタールほど高くなく歩兵も多かったようだけど、騎兵はラヴァと呼ばれる
ゆるく広がった隊形で襲い掛かるのが常で、軍馬に乗って密集隊形で突撃し、長いランスでパイク兵の密集陣すら
突き崩すフサールと正面から戦う力はなく、荷車を繋ぎ合わせた防御陣地から火縄銃などで応戦していた。
敵方に砲があれば荷車ごと吹っ飛ばされる危険があったけど、ポーランド軍が騎兵隊だけ突出して行動してる
ような状況では有効な戦術だったらしい。

324 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/29(日) 21:43:35
フメリニツキー反乱後の1667年にはタタール兵3万、コサック2万、イェニチェリ3千に24門の砲という大軍に
攻め込まれてるけど、ポーランド軍は2つの峡谷と森林、沼地に挟まれた場所(ウクライナのピドガイツェ)に
陣取っていたためタタール側は正面攻撃しかできず、結果9千しかいなかったポーランド軍に撃退されている。
真っ向からガチで戦ったらそんなもんです。

325 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/06(月) 08:50:56
日本マンセー学会の連中は嘘つきばかりだかw
論文の一つも出せない素人歴史ファンらしいわw

326 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 04:43:44
>>325
どっちが正しいの?
素人には分からんのです

327 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/17(金) 12:05:33
>>326
自分で史料を直接確認してみたら?

例えば文永の役について、元史は「官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る」なんだから、
少なくても作戦通りじゃなかったことは認めているわけだよな。
高麗史では「戦いに敗れて1万3千5百余人が帰還できなかった」と明確に負けを認めてる。
日本側の鎌倉年代記や帝王編年記でも、蒙古が合戦で撃退されたことになっている。
実際に戦闘に参加した御家人が作成した蒙古襲来絵詞だと、元軍は武士の集団戦法に圧倒されて
逃げ回っている。
そして、戦後の研究者たちが言っているように武士が戦闘で負けていたなんてことを裏付ける信用
できる史書は無い。

現状はこんな感じだが・・・

328 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/17(金) 19:32:19
>>327
俺はアンタの意見の方に整合性を感じる。やっぱ、素人なりに軍事学の参考書とか読んだりしてみると、
戦後の定説はおかしいな。上の方にある弓の射程距離とか明らかに戦後説は矛盾がありすぎ。
325にも出来れば、何らかの資料を提示して欲しい。そうすれば、見比べが出来るから。

329 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 20:40:56
上陸作戦は非常に難しい作戦であり
一旦は成功させた蒙古が勝っていたなら海に引き上げる理由はない

330 :324:2007/08/19(日) 01:48:38
「ピドガイツェ」を「ピドガイツァ」に訂正

331 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 07:16:00
2つの峡谷と森林、沼地に挟まれた場所みたいな思いっきり限定されたシチュエーションでしか
タタールに勝てないフサールって本当に強いのか??

332 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/21(火) 09:55:09
とうとうグダグダになった

http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1175065848/

333 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/01(土) 22:45:19
世界最強

334 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 16:24:56
状況によってどうとでも変わるのに最強とか言い出す奴って何なの?

335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/26(水) 01:51:34
>>331
無意味な問いですね。
それを裏返すと「機動を発揮するスペースがなければポーランド軍に勝てないタタールって本当に強いのか」
ということになりますから。
機動で敵を翻弄して勝つ軽騎兵と突撃で敵を粉砕する装甲騎兵のどちらが強いかなんてのは
漫画でいうと「ジョジョの奇妙な冒険」で最強のスタンドは?とか問うのと同じ。
>>332
324のカキコが前後の文脈を無視して引用されてますね。
「こうしてみると少数でモンゴル騎兵の大軍を破ったポーランドが異様だな」とか勘違いしてる人もいるし・・・
困ったもんです。

336 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/26(水) 15:14:26
>>335
でも、現実には機動するスペースがあって、ポーランド軍がタタールにまったく
歯が立たないケースの方が多いわけだろ。
それは普通「タタールの方が強い」と言わないか?

337 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/26(水) 23:23:00
深夜に女性一人でペッパーランチ食べたい

338 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/27(木) 11:12:39
>>336
誤解を招く書き方をしたかもしれませんが、シュラフタ共和制期だとタタール側が
ポーランド軍に負けてる例の方が多いです。
この時代クリミア・タタールがポーランドに仕掛けていた「戦争」というのは略奪が目的で、
遠征軍は渓谷などを通ってこっそりポーランドに侵入し、小部隊に分かれて散開し村々を
荒らしまわって奴隷狩り等を行い、ポーランド軍がやってくる前に戦利品をもってクリミアへ
退却するというものが大半であり、できるだけ戦闘は避けていたらしい。
で、ポーランド軍と実際に交戦した例をリストアップしてみると(Polish Renaissance Warfare
等を参照)以下のようになっています。

339 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/27(木) 11:14:14
×1506年 クレツクでリトアニア軍に敗北
×1512年 ロプシュでポーランド・リトアニア軍の攻撃を受け敗走
○1620年 チュチョラでトルコ軍と共にポーランド軍を破る
×1621年 ホチンでトルコ軍と共にポーランド軍に敗北
×1624年 マルティノフ付近でポーランド軍に敗北
×1633年 サソヴィ・ロクでポーランド軍に敗北
×1633年 カミヤーニェツ・ポドルスキーでトルコ軍と共に撃退される
×1644年 オヒマトフでポーランド軍に敗北
  1648年 フメリニツキーの乱開始
○1648年 ゾフティ・ヴォディでコサックと共にポーランド軍を破る
○1648年 コルスニでコサックと共にポーランド軍を破る
○1648年 ピリャフツィでコサックと共にポーランド軍を破る
×1651年 べレスチェシコでコサックと共にポーランド軍に敗北
○1652年 バトガでコサックと共にポーランド軍を破る
×1667年 ピドガイツァでトルコ軍・コサックと共にポーランド軍に撃退される
×1672年 ラディジンでコサック・ポーランド軍に敗北
×1672年 ネミリフでポーランド軍に敗北
×1675年 ルヴィフでトルコ軍と共にポーランド軍に敗北
−1676年 ザラフノでポーランド軍を包囲し、和約を結んで撤退

漏れた例があったら指摘よろ

340 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/28(金) 08:05:16
>>339
休戦協定を結んで終わった1621年のホチンは引き分けでは?
あと、タタールの寝返りで勝ったべレスチェシコを「タタールに勝った戦い」に
数えるのは如何なものか?
1667年から1676年までのトルコ・タタール連合との戦争も、ポーランドの連戦連勝に
なっているけど、この戦争ってポーランドがポドーレを失って敗北した戦争だろ。

341 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 01:26:23
そうですね。ザラフノが−ならホチンも引き分けの方がいいかも。
べレスチェシコではトガイ・べクが戦死してタタールが逃げたのでは?
何でフメリニツキーを拉致してったのかはよく分からんですが。

70年代のトルコ戦争だと戦闘では連勝してますよ。
停戦交渉の細目まではよく知らんですね。
個人的にも気になるんで世界史板のポーランドスレで聞いてみよう。

342 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 09:45:01
>>341
1672年ってポーランド軍が2勝したことになってるけど、実際にはトルコ軍が
ポーランド奥深くまで侵攻してカミューニェツを攻略するなど、トルコ側の
圧倒的優勢で推移した年だった。
それでこの年、ポーランドがポドーレとヴラツワフとキエフの一部を失い、
その上毎年トルコに貢租を支払うという屈辱的な内容のブチャチの和約が
調印されている。
これを議会が拒否して戦争が継続され、ザラフノの勝利で多少盛り返して
ポドーレを失うだけで済んだって感じ。

343 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 13:14:30
すでにスレちがい

344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/29(土) 17:02:17
>>342
このときのトルコの大宰相がカラ=ムスタファ。
この1672年オスマン=トルコの領土が最大版図になる。
しかし自分の軍事能力に自身満々となったカラ=ムスタファは更なる野望を持ち
1683年に有名な第2次ウィーン包囲を行うが、今度はオーストリア、ポーランドに惨敗。
これによりオスマン=トルコの衰退の始まり。


345 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 01:41:08
>>342
1672年の段階だと、そりゃ議会が軍の増強を認めずヤン・ソビエスキの手勢数千と
地方の部隊や農民しか戦ってないんだから、名高い「チャンブルの襲撃」などで
局地的に勝ち続けても大勢は覆せないでしょう。
ポーランド語版のウィキペディアなんかを覗いてみるとラディジンとネミリフのほかに
詳細が分からない1672年の戦いが9つぐらい列挙されていて、日本語か英語で
その辺の詳しい情報がある本等があったらこっちが教えてほしいくらいです。マジで。

ブチャチの和約後の経緯について「ザラフノの勝利で多少盛り返して」ってのは間違いで、
1673年にはホチンでトルコ軍に大勝し(タタールと関係ないので339には書かなかったけど)
その勢いでモルダヴィアまで占領。
1674年には新たなトルコ軍がやって来てモルダヴィアから追い出されますが、
ウクライナでトルコとロシアが戦い始めたのを好機に、ウクライナの要塞をカミヤーニェツ・
ポドルスキー以外すべて奪回してます。
この頃になるとまた議会が軍資金を出し渋るようになったらしいですが、1675年に
また20万強といわれるトルコ軍が侵攻したのを何とか撃退してます。
オスマン帝国にしてもポドーレを取るのが精一杯だったんじゃないですか。

346 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 08:54:09
で、結局勝ったのはトルコなんだろ

347 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 02:12:59
国内の対立で統一した軍事行動すら出来ず、国難にあって兵士の給料すら払えない国に
8万だの10万だのといったバトゥの遠征並みの軍勢を何度も投入して
やっとのことで北海道の半分くらいの土地を手に入れたわけです。

で、ポーランドVSタタールの話はどこへ行ったんですか。

348 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 16:55:56
信頼度の高い史料が存在しないから、バトゥの遠征の正確な規模なんてわからないよ。
せいぜい3万〜4万と見積もってる研究者もいるみたいだし。
それにバトゥの本隊が侵攻したのはハンガリーで、ポーランドを散々蹂躙したのは単なる支隊。

349 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 18:50:38
誰か文永の役を映画化しろよ

350 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/02(火) 14:26:13
こんな過疎スレで長文書いてないでこっちでやれば?
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1158940720/l50
ttp://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1189275357/l50

351 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 10:09:55
>>349
文永弘安と通してやらないと

352 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/06(土) 01:18:23
過疎だからマターリ議論できるわけだが・・・

353 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/07(日) 00:08:05
このスレまだあったの?wwwwww

354 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/07(日) 00:14:10
この時代の日本の想定する世界は本州と四国と九州のみらしいな
だからポニーでテクテクと歩く速度で“走って”
ようやく敵と会ったら“やあやあ我こそは・・・”と宣う
上記の世界に限定されれば世界一強いな

355 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/07(日) 08:33:32
>>354
モンゴル軍もポニーに乗ってヨーロッパの騎士団を蹴散らしたんだが・・・
当時の世界で最強の騎兵を擁していた遊牧民とかは、みんなポニーサイズの
馬に乗っていたんだよね。
それから鎌倉武士が敵に名乗りを上げて一騎打ちを挑むなんていうのは完全に
ファンタジーの話。
現実には集団戦法でモンゴル軍に圧勝してるし。

356 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/07(日) 08:39:31
軍事板がぶっ飛んだ

357 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/07(日) 14:53:16
名乗りを上げて一騎打ちを挑むのはファンタジーではない
確かに互いに名のあるものであれば一騎打ちをすることもある
ただ、すくなくとも蒙古兵に名乗りを上げての一騎打ちなど挑むわけがない
武士から見たら蒙古軍は蛮族であり、全員雑兵みたいなもんだからな
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/index.html

ただし元寇において、敵と交戦状態になる前、まだ余裕のあるときに名乗りを上げる行為自体はされていた
つまり味方同士名乗りあいこれから行う戦闘での互いの働きの証人になってもらうためである。


358 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/07(日) 16:34:35
日本の農耕馬とモンゴルのモウコノウマをごっちゃに語っているのは思わず失笑
した
ましては軽武備で遊牧用にも慣らしてある馬と鈍重で騎馬戦闘用に作られていな
い重武装の甲冑を着て騎兵訓練を受けていない馬を同次元に語る点は馬の歴史を
知らんのも同然だな

まあ難民だから許そう

359 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/07(日) 17:04:41
難民だから、蒙古馬と木曽馬が非常に近い種の馬であることや、
日本の馬が日々厳しい騎兵訓練を受けていたことなどの基礎的な
知識も無い奴が書き込んでるのか・・・

360 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/07(日) 18:22:56
>>358
あほ?

361 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 06:31:50
大鎧は騎馬戦闘用の鎧ですが?…

362 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 11:08:01
騎兵訓練ってどういう内容のことだろね
犬追物とかは集団で密集したなかで各人が馬をコントロール(したうえでターゲットの狙撃を完遂する)する訓練だしなぁ

>日本の農耕馬とモンゴルのモウコノウマをごっちゃに語っているのは思わず失笑
した
そもそも馬のサイズの話をしてたのにねw
大丈夫かねこの人

363 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 12:26:16
358は手遅れ

364 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 13:49:34
>>358は多分釣り
こんなバカがリアルでいるはずが無い
スレを伸ばすための陰謀だ

365 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 02:02:28
やっぱアホやな
難民は
ハミや鐙、鞍、蹄鉄など日本では騎兵用には作られていない
いい例が幕末になって英仏から馬や馬具を輸入し騎兵部隊を組織した
もしそんなにご優秀な騎兵部隊があったとするなら武器や軍装を除けば、馬や馬
具そのものを輸入する必然性がないんだよ

モンゴルや北欧の一部は小型の馬だが、もちろん和製馬よりは大きいし、馬具も
騎兵戦闘用に堅固で扱いやすく作られている
日本ではそもそも戦闘に耐えうる蹄鉄がなかった
もしそのように激しく使用すれば蹄が傷付くのは明らか
ナポレオン戦争当時は146cm以上の高さの馬を要求されていたが、戦争が長引く
につれ、消耗し戦争後期には138cm程度に低下するが、馬具そのものが優秀だった
ため騎兵用に耐えうることができた
英国はアラブ馬が流入する以前から良質な大型馬を生育していた
従って英国は騎兵に関しては戦争期間を通してレベルダウンしなかった

366 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 07:50:32
現在の流鏑馬なんかは、わざわざ昔の人が使っていた和式馬具を骨董品屋から
取り寄せて行なわれているんだよね。
騎射などの中世の戦闘に関しては、和式馬具の方が性能が優れているんだよ。

それから朱印船貿易の時代には日本の馬も海外に輸出されていたぞ。


367 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 12:53:05
>>365
>ハミや鐙、鞍、蹄鉄など日本では騎兵用には作られていない
近代「騎兵」用ではないのまちがいだなw
ドイツやフランス式を習うんだから彼らと同じ道具をそろえるのは当たり前だがね
それに言い方は悪いが授業料だけでは教えてくれんよ。同時に大量の馬や馬具やその他もろもろを買うから向こうにとっては金になるわけで、
「道具は全部自前でできるから教官だけよこせ」で教えてもらえるわけがない。金にならんからな。

西洋馬の馬格が大きくなったのは近代。中世と混ぜられてもね
一方日本は馬の交配に関して未熟だったため時代が下るとともに馬が減っちまったのよ。消費するばっかだったからな。馬格もどんどん小さくなった。
鎌倉時代の日本馬は軍馬として使われたものは骨格からおおむね140センチやね
最も馬が減りだしてもギリギリ鉄砲が間に合ったので、大規模歩兵運用の時代に変化したのであんまり実害がなかった。

騎兵騎兵いうけど日本の武士は騎乗した「砲台」だからなぁ
馬上打ち物や騎馬で歩兵に突っ込むとかなら馬格は大事だろうがろうが魚の群れの如く集団で移動しながら類を見ない鏃のでかさと矢柄長をもつ矢をどっかんどっかん射る鎌倉武士にとっては
馬の大きさはあんまり意味がないわなぁ

368 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 13:02:40
まあ釣られるのはこの辺にしておいてとりあえずお馬さんの絵おいていきますね

てのものふんとりあまたなり
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/e02.htm
三井資長、蒙古兵を撃退する
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/e03.htm

369 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 16:50:39
とりあえず、文永はともかく
弘安は終始鎌倉側が優勢だったと見て間違いないんじゃないかな。

博多周辺に防塁を築いた上で、
主力の関東御家人が配備されていて、
一騎打ちではなく夜討などのゲリラ戦術を多用して
ほとんど元側は対馬とかを除けば、蹂躙できていないみたいだし。

つまるところ、暴風雨がなくても武士で撃退できたとは思うよ。

370 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 16:54:35
文永の役でも一騎打ちなんかしてないよ

371 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 12:58:46
一騎打ちは武士同士じゃなきゃ成立しない
元寇のときの相手はどこの馬の骨ともわからん雑兵だぞ
上にもあったけど元だの高麗兵だのは「武士」じゃないから一騎打ちなんかしてないよ

372 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 05:05:12
現実的に考えても陸続きではない日本を攻める場合、
なんで馬に乗って攻めねばならないんだ?
軍船の上でも馬に乗ってて軍船に馬を乗せてその馬にのって
日本に攻めてきたとは常識的に考えても考えられないのだけど。
蒙古襲来絵詞に書かれている元側の兵士も馬にのって戦っている訳ではなく、
歩兵のように見える

373 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 09:10:40
>>372
移動のときにまで乗ってるわけはないって
船の中に馬小屋みたいな施設でも作って運んだんだべ

蒙古襲来絵巻の元軍は高麗軍だから指揮官以外は歩兵が中心
一方別のトコで戦ってた少弐景資らが相手をしていた元軍は劉復享が率いる騎馬兵と歩兵だったとされてる



374 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/14(日) 01:56:52
陸続きだったら日本がモンゴルに変わってユーラシア征服してたのにな

375 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/14(日) 11:40:41
>>374
いくらなんでもそういう見方は飛躍のしすぎ。
逆に日本がもっとユーラシア大陸から遠いとこにある島国だったら元寇はないわけだし。
日本はユーラシア大陸より少し離れた島国だから日本たりえる。
中国の影響にも朝鮮のようにどっぷり浸からず、一定の距離を保った。
この一定の距離、遠からず近からずがいわば日本史。

376 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 14:57:07
http://www.sasakijo.com/kiba.htm
>生物学的には、現在の和種馬の平均体高は130センチである。
>これは数世紀かけて小型化されてきた結果と考えられている。
>駄馬としては、小型の馬のほうが使いやすいのだ。
>戦国期は、おそらく135センチほどの平均体高であったはずである。

377 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 21:18:08
木曾馬って可愛い顔してるよね
ttp://misakiuma.net/gallery/katsuyoubagallery.htm

378 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 18:04:23
日本の馬はポニーサイズだからというのもあんまりな言い方で、こんな言い方だと一見150kg程度のポニーを連想させるが
鎌倉末期に戦で埋葬された軍馬128体は平均体高130cm、300〜400kgはあり一般的な西洋軍馬より小さいとはいえ、
突撃騎兵で有名なスエーデンの軍馬(装備目録によると騎兵用馬は体高113〜133cm)より体格はいい。

379 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 16:14:18
「ポニー」≠「軍馬」って言う日本人の歴史感覚が歪んでるんだよ。
海外の本には「モンゴル軍のポニーはタフだった」とか「ポニーに騎乗したクマン人に騎士たちは蹴散らされた」とか
普通に書いてある。

380 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/19(金) 23:05:17
白人目線に合わせる必要も無い

381 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 03:25:36
強さって相対的なものじゃないの?

382 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 13:31:58
ポニーって言葉を輸入したときにイメージまちがっちゃったわけだな
小型馬だけじゃなく中型馬もポニーなんだな

383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/21(日) 01:29:59
モンゴル来襲なんて全然脅威じゃなかった
鎌倉武士は鼻糞ほじりながら撃退しちゃったよ

384 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/24(水) 16:42:52



現代の韓寇 対馬住民困惑「韓国人お断り」も 迷惑行為の実態
http://www.youtube.com/watch?v=t6oPJDW3ECs




385 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 13:25:26
日本の在来馬は消化器官が発達していて
防衛体力が高く骨やひづめが頑丈なのです

蹄鉄が使われなかったのは地形の柔らかさとあいまって「必要なかった」というのが正しい見解ではないかなー


386 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/28(日) 18:23:06
鎧を着けたまま馬上からのドロップキックで敵を落馬させそのまま首を掻き斬る
http://homepage1.nifty.com/sira/taiheiki/iganokami.html
浄妙坊が甲の手先に手を置いて、「悪しう候、浄妙坊」とて、肩をずんと踊り越えてぞ戦ひける
鎧を着けたまま平均台のような橋桁で味方の頭に手をかけて飛び越える一来法師
今で言うフリーランニングに近い身のこなしを身につけていた。
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heike2/hei15.html
馬上から巨大な太刀を振るい比叡山軍をなぎはらう佐治孫五郎
大太刀で馬の足を切り敵を吹き飛ばす豪鑒と豪仙
通常剣がもたないはずの峯で殴っても相手が血を吐いて死ぬという非常識なサイズの太刀で雑兵どもの胴体を胴丸ごと割ったと言う福間三郎
http://www.j-texts.com/taihei/tk008.html

387 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/01(木) 13:40:31
日本人が全力で動くとき風のように漂って動く。常に一人で陣に入って、たくさんの兵も抵抗できない。
その刀の使い方は、長い方で構え守り、短いほうで止めを刺す。しゃがんでいるかのごとく低く移動し、決して下がらない。
相手が何人いようと対応する、日本列島の中だけの絶技である。

屈大均

388 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/01(木) 14:03:46
後期倭寇の描写かな?

389 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/02(金) 00:41:26
後期は現地人の海賊

390 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/05(月) 09:28:29

今から十五年前ほどの前、アジア各国の軍部代表がマニラに集まった時のことだ。

フィリピンと韓国の代表が、延々と戦争当時の日本軍と日本民族と現在の日本企業を罵倒する演説を行った。

列席したアジアの親日国の代表達は「痛烈無残で聞くに堪えない韓国代表の演説に不快感を表した。
そして、その場に列席していた日本の自衛官が一言も発しなかった事を大層悔しがった。
そしてインドネシアのアリ・ムルトポ准将は韓国の軍人に向かって次のように、日本を擁護する演説を行った。

「日本はアジアの光である。
大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので、チンギス・ハーンとともにアジア人の誇りである」

「ここで、インドネシアの日本民族の価値についての見方を申し上げる。
今、忽然として日本民族がこの地球上から消えたら、アジアとアフリカは非常に困る。
その時に韓国が一番困ると思う。
韓国は工業大国日本と競争したから、立派な工業国になれたのである。
もし、日本がシンガポールの地点にあったら、インドネシア人は少なくとも百万人が日本に住み、
日本人と同等の教育を受けるから、その人間関係から日本の技術、市場、金融、スタッフ等活用することができる。
だから企業の成功は容易である。
つまり、日本の近いところに位置していることは、幸運なのだ。
経済的支援を連続的に受けていると言ってもよいくらいだ」

「インドネシアが日本に近ければ、今のような貧弱なインドネシアではない。
つまり、我々インドネシア人は『日本はなにもしてくれなくてもよい』と考えている。
日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで十分、アジア・アフリカにつくしている、と考えている。

だから、我々アジア人は外交面に弱い日本を支援したいと思っている。

日本から援助をもらうだけで応援しないのでは運命共同体とは言えないし、対等のパートナーとも言えないのではないか」
名越二荒之助 「日韓2000年の真実」国際企画


391 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 13:40:54
イイハナシダナー

392 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 15:03:24
韓国人はケダモノです!

393 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/13(火) 11:39:53

『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。文永末年の
ことでしたので、これを文永の役といいます。』 白鳥倉吉【国史】

394 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/24(土) 15:14:21
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1832978

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read.cgi ver 05.02.02 2014/06/23 Mango Mangüé ★
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